2019年6月28日金曜日

ドナー遺族への配慮;移植報道の在り方が問われる



  本日の読売新聞朝刊で解説欄の脳死臓器移植についての記事が目に留まった。1歳の男のお子さんを脳死で臓器提供されたご遺族が、テレビ社、移植医などを相手に、遺族の意思への配慮が欠けたことで安らぎが失われた、として損害賠償という訴訟を起こされている。記事はこのことについての解説である。岡山大学での肺移植の移植手術の現場の映像を含めた報道で、手術日を特定してことでドナー遺族にご家族の肺が移植されていることが分かってしまったことと、移植される肺がそのままリアルに放映された、またそのほかご遺族の気持ちに配慮しない発言、そして前もって了解を得ていない、などがご遺族の気持ちを損ねてしまった事例である。小さなお子さんからの臓器提供というご遺族の大変な決断を、社会が大事にし、尊敬しなければならないことに逆行するものであり、臓器移植に長らくかかわってきたものとしても残念である。まして、訴訟にまで進んでしまっていることは臓器移植全体への影響も危惧される。

  記事は医療問題で活躍されている高梨ゆき子記者のもので、神戸市で生体肝移植の死亡例が続いた時に取材をされていた方である。 今回はこれまであまり社会の関心が向けられていなかったドナー遺族への配慮という点で、今一度考えないといけないことを報道の在り方として警鐘を鳴らしている。そもそもは解説されている通り、脳死移植法の運用指針ではドナーとレシピエントの情報が相互に伝わらないよう求めていることがスタートである。この問題についてはこれまでこのブログでも何度か書かせてもらったが、移植を受けた患者さんが元気な姿を社会に見せることで移植への理解が進むと思われる中で、このガイドライン的な指針でもってお互いが隠されてしまっていることが問題であるというのが私の意見である。ドナーの遺族によってはレシピエントの方と交流したいと思われる方もおられるので、もう20年もたった今、この指針を絶対とすることは時代に即していない気もする。勿論、そういうことには拒否反応を持たれる遺族も多くおられるであろうことは承知している。しかし、報道側や移植医側が一方的に情報を行きかわせることは決して行ってはいけないことは当然である。今回のことからは、報道側にも移植医療のデリケートな面を熟知し、ドナー遺族がおられるということをしっかり肝に銘じて欲しいと思う。

  この問題で抜けている重要な視点が一つあることを紹介する。それは日本臓器移植ネットワーク(以下ネットワーク)が脳死臓器提供事例に関してホームページで詳細に公表していることである。見られた分かる通り、何月何日、どこの病院で(あるいはどの地方の)、何歳代のかたから、どういう理由で脳死となり、どういう臓器提供があったかを公表している。一方、報道では関心が高い小児例では臓器別に移植施設も公表している。ネットワークがこの仕組みを作ったのは、脳死臓器移植が始まってまだ黎明期には脳死判定や臓器配分において、透明性、公平性が担保されているかが社会(メ―ディア)の関心事であったからである。そして、一例ごとに記者会見を行っている。今も続いているようである。
  ここで気が付かれる思うが、お互いの情報が相互に伝わらないとする指針からいうと、ネットワークの公表そのものがこの指針と矛盾するわけである。一方で指針を守れと言いながら、一法では重要なドナー情報を流しているのである。何故こんなことが続いているのか。一般的にわが国は、いったん決めて続けてきたことを時代が変わってたしても、おかしいと分かっていても、なかなか変えようとしない不思議な国である。このおかしなこと(と私は思うのですが)は、報道側がその都度記者会見を開くよう行政(ネットワーク)に求めているからであると想像する。ここまで進んできた脳死臓器移植については、そろそろ1例ごとの公表はやめて、月単位で何例の提供があった、とシンプルにすることと考えて欲しい。報道側は個人情報や移植での指針に則って、それぞれの努力で情報収集をされる時期ではないかと思う。このことで脳死移植医療が密室化する危険は全くないと信じている。

   今回のドナー遺族への配慮に問題があったことは事実で、関係者が真摯に反省し、対策と今後の在り方を決めていくべきであることに異論はない。そしてドナー遺族はどういう考えを持っておられるかを社会が認識するべきであり、その調査をネットワークなり研究者、報道関係者が進めるべきではないか。あるいはそれがあればもっと公表すべきであろう。要は、移植医療は社会の医療であり、隠れた医療でもなく、移植を受け側も臓器を提供したご遺族を社会が尊敬し,敬意を表すことが改めて求めれていると感じたので今回取り上げた次第です。今回の報道側の行ったことを擁護するのではありませんが、移植情報に関する上記の指針については、その意図することを理解して柔軟に対応すべき時期ではないか、ということを再度書いて終わります。

2019年6月10日月曜日

 最近気になること;悲惨な自動車事故が続いています



 もう梅雨入りです。過ごし易い季節がだんだん短くなっているのが年ごとに強く実感されます。昨日の自転車のイベントも雨の中での悪戦苦闘で、低体温症になりかけ、歳を考えろといわれるでしょう。これからは熱中症対策が必須ですね。さて、いろいろな社会の問題が続いていますが、幾つか視点を変えてみることも大事かと思い、交通事故のことを取り上げてみました。

交通事故関係では、小さな子どもさんが悲惨な被害にあう事故が続いていますが、論点的には、高齢運転者の事故と道路交通法遵守、の二つです。

高齢者の運転免許ですが、私も今年は2回目の高齢者講習(認知機能検査)を受けることになっています。この検査は認知症のスクリーニング的な意味があると思いますが、かなり問題があると思われる場合であれば医師の診断を受けるという手順です。しかし、これで高齢運転者の事故が減ることになるかは疑問で、要は自主返納を促すという効果を期待しているものと思われます。メディアでも指摘されていますが、高齢者の日常生活において自家用車運転を止めてしまうことは社会インフラの整備が追いつかない現状では悩ましい問題です。しかし私が思うには、今の何というか手ぬるい対応で、重大事故が減るかどうかは疑問です。そもそも重大人身事故において高齢運転者がリスク因子として高いかどうかの検証も要りますが、その傾向は高いでしょう。そうすると、何か抜本的に制度改革をしないとけないのでは、と思うわけです。
本当に高齢運転者の事故を減らそうとしたら、80歳を超えた人は全ていったん返納して、どうしても必要とする方のみ適性検査をして再交付(高齢者新規免許)とうことを考えてはどうかと思います。即ち、免許の有効期間を80歳になるまで、とすることです。大きな法改正しょうが、社会実験としてどこかで始めたら、と思いますが。アンケートで、80歳になったら新規と同じ免許試験を受けてでも継続するという人がどの位いるのか調べてほしいです。高齢者の運転免許更新制度については、以前から運転免許スクール(警察OBの方々?)の高齢者ビジネスと感じているので、このビジネスを縮小させる方向でないと社会的に受け入れらないでしょう。

もう一つは、大津での痛ましい保育園児の死亡事故です。運転者は共に高齢者ではないですが、信号のある交差点での右折車と直進車の衝突事故です。右折車が反対車線に入り込み、直進がよけきれず衝突。はずみで歩道に飛び来んできた直進車によって交差点で待機していた園児が死亡した事故です。新聞等の論点はもっぱら交差点の歩道側の安全対策が言われています。危険個所ではガードレールとか砂袋)?)といったものでの対応も行われています。しかし、ほとんどすべてのメデイアの論点で欠けているのは道路交通法を順守させる警察はどうしているかではないでしょうか。

道路交通法では、交差点での優先順位においては直進車および左折車にある、という大原則があります。普段からこれを指導し、違反者への取り締まりもしない、交差点での現場放置の結果が今の全国の状態です。都道府県で違うのも驚きですが、道路交通法の原点に返らないと、事故が起こってからの歩行者対応では遅く、本末転倒でしょう。そもそも青信号を矢印型(補足;左折・右折レーンがある場合)に変更していないからと思います。時差信号とかいうあいまいなやり方では事故は減らないでしょう。

米国の免許試験講習では、交差点で待つときはハンドルを切らないで直進方向に平行に止めることが基本と言われます。斜めだと、両側の車線に跨って狭くすることと、対向車との正面衝突の危険と、後ろからの追突でもはずみで対向車線に飛び出して正面衝突の大事故になるからです。モータリゼーションでは1世紀遅れの我が国が、先進国の学んできたことを、round-aboutもそうで、我が国は狭い国だし、そんなことは見習わなくていいということでしょう。ここでもガラパゴス化でしょうか。

詳しい道路行政や交差点事故対策研究も勉強しない素人の戯言でしょうが、交差点事故は警察の交差点現場での指導と取り締り強化、即ち道路交通法遵守対策(交差点での優先順位)で交差点事故を減らす方針の徹底、が原点ではないかと思います。その限界もあることは承知ですが、これを警察がやらないことで社会が慣れきっている現状が最大の問題でしょう。そして、やはり国としてやることは青信号の矢印方式の普及でしょう。

個人的には今回の更新は受けて、自己の適性度の自己判断をします。みなさん、交差点での右折は急がないで。