分かりにくいタイトルだが、今日は臓器移植について軽く触れたい。今年の7月は臓器移植法制定から20年の節目であるが、それについてはしっかり別の機会に触れるとして、今日は軽く寸評程度で。
一昨日から昨日にかけて子供さんの臓器提供のニュースが出ていた。15歳未満(6歳未満の小児ではない)の子供さんが脳死となり、ご家族が臓器の提供の承諾をされ、心臓などの移植が行われる、という記事。ご家族の尊いコメントも載せられていた。法律改正で可能となった15歳未満の子供さんからは家族の同意で脳死での提供が可能となり、この子供さんが13例目と書かれている。少しずつではあるが小児の臓器提供も進みつつある。
少し軽い話として、昨夜のTVドラマでは、企業に勤めるエンジアの母親が、心臓病の子供を米国に心臓移植を受けに行かせるため数億円という費用を捻出しないといけない、というなかで、企業がその費用を用意するという条件で母親を犯罪に巻き込んで行ったというシナリオである。渡航移植の費用が巨額になっていること、米国に行かなければ助からないということ、などの背景が企業犯罪とこれに対峙する警察のTVドラマにまで登場するのかと、複雑な気持ちになった。渡航移植の数億円という費用の捻出に親たちが現実にどれほど苦しんでいるかを思うと、ドラマを楽しむよりやるせない気持ちになる。ただ、高額費用の渡航心臓移植について社会問題化していることを表しているのかもしれない。
ここで、脳死での臓器提供のニュースは今ではもうあまり目に留まらなくなったとは言え、小児ではまだ記者会見の様子などTVも交えて報道される。提供に同意された親御さんのお気持ちをネットワークが紹介することで、普及啓発になるのであろうが、もうそういう時期はそろそろ卒業してはどうかと思う。ニュースのタイトルも、脳死での提供とある。ことさら脳死ということを付け加える必要があるのか。メディアは報道の役目があるが、それでも脳死ということに拘るのは、まだこれが特別な意味を持っているからではないか。これは考え過ぎかもしれないが、20年経っても、改正から7年経っても、特別扱いすることの意味である。しないと忘れられるのか、しないといけないのか。もう特別扱いは卒業したらいいのでは、と思う。それが臓器移植を普通の医療に成長したとする証になる。いやそうはいかない、また和田移植のようなことが起こるかもしれない、社会への公開が大事、という意見が出そうである。この意味で、和田移植(今の時代の方には何のこと、という話)の呪縛はまだ社会(行政、マスコミ)に残っているのではないかと思ってしまう。
何気なく見過ごしている臓器移植のニュースの在り方や、ネットワークの記者会見も、そろそろ考え直す時期ではないかと、感じた。一方、臓器移植は社会と共にあるのだからそれは無理だという考えもある。これからの臓器移植を考える上での大事な論点である。新聞報道を見て、脳死臓器移植がまだ成熟していないのか、いや返って必要なのか、考えてしまう。
因みに、この報道でのネットでの書き込みを見ると、家族の決断を支援する声や移植は自国で、という意見があり、これに賛同が30ほどあれば1割ほどはそうではない。ネットでこういう意見交換が進むのを見ると、臓器提供に問題がなくてもその都度ニュースに出す意義は大きいのかもしれない。