先日、毎日新聞(7月8日朝刊)に小児の脳死移植について記事があった。「そこが聞きたい」シリーズで、今回の登場は埼玉県立小児医療センター部長の植田育也氏であった。同氏は小児集中治療について米国と国内での多くの経験をお持ちのかたである。また小児救急の第一線で活躍されながら6歳未満の小児の脳死判定基準策定や実際の脳死判定に携わって来られている。
「法改正5年、変化の兆し」、という見出しが目についた。そうか、もう5年経ったのか、という思いでしっかり読ませてもらった。この5年間で15歳未満の小児の脳死からの臓器提供は7例であったが、この数が多いか少ないかの話しが紹介されている。ご自身の医療センター小児集中治療室(PICU)では年2例ほどの脳死から臓器提供の選択提示をされるそうですが、県の小児救急のセンター的役割から見ての年2例を全国に推測すると、年間で70例ほどの小児の脳死が国内で発生していることになると言われておられる。そしてその1割が提供した可能性があるとすれば、年7例であり現状の5年で7例は少ないと言えるかもしれないという意見である。
我が国で小児からの脳死臓器提供が少ない背景について、先生は小児の救急医療がまだ整備途上であることを指摘され、そして終末期医療も含めた小児救急医療に関わる方々の経験を蓄積させて医療チームの質の向上が今後大切と言われている。ご本人は5年間で9件の脳死臓器移植提供の意思確認をされましたが、いずれも提供には至らかったそうである。子供さんの重篤な脳障害の多くは不慮の事故が原因であることもあって、突然子供さんが脳死状態と告げられた家族は精神的な負担も大きいことから、脳死の受け入れや臓器提供への心の切り替えが出来ないのではということだと思う。先生はこのような背景を考え、普段から脳死になった時に臓器提供のことを話し合っておいてほしいということで纏められている。
興味があったのは記者のコメントで、現在の法律の抱える基本的な課題、即ち脳死は一律に人の死ではなく臓器移植でのみ死である、ということの問題を指摘している。このことが臓器提供の判断にあたって家族の精神的負担を増す要因になっているのではないかということで、我が国の終末期医療の充実には改めて脳死について議論を始める時期ではないかと述べている。
改正法が成立したときの新聞では「脳死は人の死」成立、という見出しであった。脳死は一律死であると言う前提でなければ、家族に臓器提供承諾を任せるのは酷である。臓器提供でもって自分達で家族の死を決めることになるからである。しかし、本人の意思が不明の時に、家族の判断で死となったりそうでなくなったり(臓器提供がなければ死にならない)、という脳死のダブルスタンダードが法的にまかり通っているわけである。この法整備上の不備をなんとか解決することが医学界や関係者の責務ではないかと常々思っているので記者のコメントには賛同するものである。
この課題をどうか解決するのか。こういうことを言い出すと、脳死を一律に死とする国民のコンセンサスはまだ得られていない、という意見が出てくるであろう。本当にそうなのかはなはだ疑問であるが、更なる法整備に向かうとすれば国会議員の方々の賛同をどう得ていくかが課題でもある。移植関係側からは今は何もアクションがされていない。何故そうなのか。
尊厳死も法的に認められていないから、ガン末期でも人工呼吸器を止めることが出来ない現状が続いている。iPS細胞移植はじめ多くの最先端医療が進む我が国において、救急医療や終末期医療現場では未だに人の死についての課題が残されたままである。補助人工心臓の永久使用でもこの問題は生じてくる。脳死判定という高度で確立された医学的な診断と、家族が脳死を死と受け入れる社会の理解との間には大きな壁があるわけで、その一つの原因、というか副産物かもしれないが、脳死のダブルスタンダードではないか思う。学会等で呼ばれた海外からの臓器移植の専門家がいつも指摘するのが、同じ医学的脳死の患者さんが臓器提供のありなしで全く違うコースをとることを容認している日本の医療の奇妙さである。これは相手の心を慮った日本的文化なのか。
脳死と臓器提供問題はまだまだ奥が深く社会の理解を得るには道遠き、の感がするがこの毎日新聞の記事で、「変化の兆し」とあるようにゆっくりではあるが一歩一歩進んでいることを理解することも大事であろう。補足すると、ことの根幹には、医学界が脳死について医学的根拠を持ちながら毅然とした態度をとっていないことが実は最も大きな課題であると思っている。因みに、日本救急医学会は平成18年2月21日に法改正前であるが、脳死は人の死、という内容の見解を出している。しかし、当時の状況では臓器提供以外にも家族にこれを強要することは適切ではなく、慎重な対応が必要としている。救急医学会は当時から10年を経ようとしている今どういう意見なのか、確認したいところである。
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