早いものでもう7月です。関西でも梅雨明け宣言がないまま猛暑が来ています。夏休みまでもう一息、踏ん張りましょう。
さて、最近の国会は、国家戦略特区による愛媛県の獣医学部新設で姦しい。その決定のプロセスについての疑惑ありとの野党側の攻勢が、国会閉会後も続いている。そういう中で、「決定プロセスに一点の曇りもない」との総理の発言があり、それ呼応するかの如く戦略特区の諮問会議の民間議員メンバーから、はたま担当の地方創生担当大臣、さらに官房長官まで、一点の曇りもない、と右へ倣え、の発言である。この言葉は政治の世界でこれほど多用され、注目を集めるのは珍しい。しかし、問答無用に似た感じがして何か違和感を覚える。
この言葉は私にとっても曰くつきの言葉である。一点の曇りもない、という結果説明ではなく、一点の曇りもなく、という前もっての言葉であるが。それは、前にも書いたと思うが、臓器移植法か出来て脳死からの臓器移植が可能となった頃、担当行政官はドナーの脳死判定へのプロセスや診断、そしてレシピエント選択の場において、この言葉をもって関係者への警告をする傾向にあった。和田移植の轍を踏まないようにと睨みを利かしているのである。厳しい法律のもとで、また新た出発において、それこそ曇ったことや不信を抱かせることをするわけがない。法成立後20年間、関係者は性善説で守られながら、最大の努力をしてきた。しかし、時に性悪説が顔を出す。その時の言葉が、一点の曇りもなく、であると思っている。
現在の移植現場でも何か議論のある事態があると、「一点の曇りもなく」が出てくる。法律の運用においていまだに行政が口にする言葉である。私に言わせれば、和田移植の呪縛がまだ生きている、ということである。心臓移植が円滑に再開されて、此の呪縛は消えたはずではないか。しかし、移植医療の新たな展開になるのではという議論の場面でこの言葉が使われることが問題なのである。大事な局面で、恰も水戸黄門の御朱印のごとく登場する。また医療者側がそれをあたり前と思ってしまっていないか。まさに上位下達方式で、移植医療が萎縮してしまう。
何故これに拘るか。移植医療の第三の展開をしようとする現在、この言葉は現場を萎縮させ、新たな進歩を阻む恐れがあると思う。何も法律違反、条例違反、をしろ、勝手にさせろ、とは決して言ってはいないいし、そういうことは出来ないしない。しかし、此の膠着した移植医療の現場を何とか変えていこうとするならば、前向きの議論も欲しい時がある。その時に此の呪縛的な一言をあえてお役人に言わせない、というのが移植に関わる専門医療者の矜持ではないか。
政治の場面で今目立っているこの言葉はこれから更に頻回に使われて、本当の議論が疎かになりはしないか危惧しながら、臓器移植での使われ方についても気になっているので紹介した。ない、と、なく、の違いはあるが、私見を書かせてもらった。
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