最近, 渡航移植の患者が移植後早期に現地で亡くなったという報道があった. ブルガリアでの生体肝移植と生体腎移植である. 正確なことは不明であるが, かなり杜撰な移植であったのではと思われる. 脳死移植が進み, 渡航移植はもう止めにしようというなかでまだこんなことが起こっていることに忸怩たる思いがするのは私だけではないであろう. しかし, ドナー不足は深刻なことの表れでもある.
さて, 久しぶりの投稿になったが, 新型コロナの第5波で我が国が翻弄されえいるなかでコロナの話題では何を書いても自己満足でしかないので中断していた. 私には, 医師の働き改革, 専門医制度, 臓器移植, チーム医療といった限られたキーワードしかないが, 今回は原点の臓器移植に戻ってみることにしたのは, 冒頭の記事によるということになる. もう一つは, パラリンピックが盛大行われ, 共生という言葉が広まっている中で, 臓器移植を受けたいという人にたいして我々社会は公平かどうか, ということを考えてみる機会となった.
臓器移植では心停止ドナー(脳死ではなく心臓停止後の提供で現在は腎臓のみ行われている)の話を以前させてもらったが, 気持ちはいよいよ熱くなってきた. 心臓移植関係者での心停止ドナーの話は現役が及び腰であることから, こんな年寄りが出てきている. 商業誌「胸部外科」で心臓移植の特集の企画があったので応募したところ採用になった. 来年の1月号であるが, 「心停止ドナーからの心臓移植, 我々はどう向き合うか」, である. 科学論文ではないので言いたいことを十分書かせてもらった. これが現場にどう影響するかは心もとない.
この話題に関して, 今月行われる日本移植学会の臓器横断的課題のシンポジウムで同じ内容を発表する.会長が心臓外科医なので採用してもらった感じである. タイトルは, 「controlled DCD(心停止ドナー)にわれわれはどう向き合うか;心臓移植の立場から」である. 引退した老心臓外科医が今更シンポに応募するなんて馬鹿にされるに決まっているが, あえて学会活動の最後と思って応募した. 採用されたので思いのたけを8分で述べてきたい. しかし, これが移植学会の活動にどう反映されるかはやはり心もとない. 日本移植学会の今のスタンスは, 心停止ドナーからの移植では心臓移植は少し待てというようである. 今度の東京での社員総会(昔の評議員会)で議題になるのか分からないが, 発言の機会があれば執行部の意見の再確認をしたい. 出来れば方針変更の理事長発言が聞きたいものである. 要は, 心停止ドナーからの移植は欧州では全臓器対象に活発化している中で, わが国では腎臓に限っているのは移植に携わる当事者として黙っているのか, という話でもある.
これに関係するが, もう一つの話は, 「臓器移植は公平か」, という命題への問いかけである. 亡くなられた方々からの尊い臓器は社会へのギフトであり, 公平, 公正に希望者へ配分しなければならない, が揺るがせない規範である. 臓器提供が限られる中で, だれがその権利を受けるか, どういう順番か, で徹底したルールを作ってこれまで公平公正を担保してきた. ここで, 今関わっている患者さんについて紹介したい. 64歳の男性, 心筋梗塞を発症し一命はとりとめたが高度の心不全となり, 基幹病院で心臓手術を受けた. 術後は重度の心原生ショックとなり, 機械的補助循環や気管切開も要したが何とか回復し, 3か月後に転院してきた. 廃用性症候群の様相を呈し, 退院も難しく緩和ケアの段階でもある. 心臓の病気だけで見ると虚血性心筋症の末期であり心臓移植の適応となる. 手術前でも同じである. 今64歳というと数年前は62―63歳であり, 年齢としては心臓移植の適応にかろうじて入る. しかし, 移植の話はされていない. それは本人の意思は別として, 家庭環境で独居であることから門前払いであったと思う.
ここで心臓移植では受ける条件として, 移植後の家族の支援が不可欠であり, 独居の方は原則対象外となる. 心臓移植は補助人工心臓からのブリッジにほとんどがなるが, ここでも家族ないし支援者が24時間同居していることが要件である. ポンプ駆動の急変時の対応は自分ではできなく, 介護者がいないとそのまま死亡ということになるからである. このように, 心臓移植, 特に前提となる補助人工心臓ではそばで支える家族の存在を必須としている. しかも原則は24時間抜けないように,である. これに一般の方はどういう印象をもたれるか. 家族でもここまでやるのは無理というケースもあるし, また本人もそこまでしてもらうのはプライバシーのこともあり, 悩ましい. 訪問看護ステーションの関与やこの分野に経験のある在宅医グループの参加も可能であるが, 全国どこでもというわけにはいかない.
ここで、ガイドラインでの記述を紹介する。支援者はケアギバーと言われている。
「ケアギバーのサポート: 植込型 LVADを装着する患者にとってケアギバーのサ ポートは重要で,配偶者,親,兄弟,子どもなどからの精神的,経済的な支援が治療継続に有益である.原則的には アラーム発生に気づく位置にケアギバーがいることも重要である.ケアギバーは必ずとは限らないが,同居している家族が担うことが多い.また,おもなケアギバーは成人し た者とする.ソーシャルワーカーやカウンセラーなどの社会資源の活用が有効であることも考えられる.」
この縛りは, 10年ほど前に制度が始まった時に, 安全性の担保のために決められたもので, 10年たっても変わっていない. 一方では補助人工心臓を付けて一人で会社へ通勤している方もおられる. ハートマーク付きのバッグを書かけてはいるが. 補助人工心臓ではこの家族(支援者)の24時間(同居)での支援が必須であることは以前より問題となっている. 遠くの親せきが東京や大阪に引っ越してこないと登録できない, ということである. これは緩和すべきではないか, という議論は以前振ってみたが, 規約の改定には消極的である. このお陰で安全が担保されているから変える必要もなく、緩和してかえって危険性を増すのか、という意見である. 今でも関係者間で意見を出せないでいるのではと思う.
確かにそうであるが, 移植は公平に行われているか, 医学的要件以外での差別ではないか, という疑問を生じさせていると思うからである. ここで共生という言葉が登場するのには無理があるかもしれないが, 補助人工心臓で家族支援が得られない方でも社会の支援があればこの要件がクリアーされるのではないかと思うからである. 即ち, 社会の支援, 在宅医療での訪問介護や訪問診療での対応や遠隔診療, ICTでの対応など, やればできるのではないかと思う. お金の問題は大事ではあるが, 絶対ではない. 家族支援がない方へでも移植を受けられるように社会が支援するのが共生の考えではないのか.
移植現場でこういった差別があることを社会の多くの方々は全く知らない話である. 当事者になって初めてそんな条件があるのか, 私はあきらめよう, という現実がある.
共生という言葉の解釈に異論があるかもしれないが, 臓器移植で感じたことである
臓器移植の根幹である「公平」という規範が, 臓器が足らないということであってもやはり守るべきであり, 特に社会的要因で機会が得られないことは避けるべきである.それが難しいときは社会が支援していく道を作るのが関係者の役割ではないかと思う. ドナー不足を便法に使ってはいけないと思う.