2021年12月25日土曜日

今年も新型コロナと臓器移植で締め括り

 

早いもので今年(2021年、令和3)も残すところ後1週間となった。今年は新型コロナの第5波で日本中が翻弄された後、このまま収束か思いきやオミクロン株の登場で再び先行きが見えなくなっている。この一両日には市中感染も出てきて正月休みにも影響が出てきそうである。私の勤務先の病院も小規模ながら行政の要望に応える形でコロナ対応病床を作って軽症と中等症の患者さんを引き受けてきた。高齢や合併症がある方が多く、1週間以上の隔離管理で肺炎が治っても体が弱ってしまって元に戻れない、という現実を見てきた。

保健医療の国難的危機では、何度も書かせてもらったように公的ないし急性期センター的な病院に大胆な機能集約をすることが必要である。今また医療崩壊の予防線を、一般病院を巻き込んで体制を組み立てようとしているが、3-5波の時に学んだのは何だったのか。とにかく施設を増やすという姑息的な手法がまたぞろ始まろうとしている。保健所機能は限界があるなかで、成田空港管轄の保健所が濃厚接触者対応で右往左往している。フロントラインを保健所に任せることに限界があることは分かっているし、クルー船以来2年にならんとしているのに、である。

 さて、随分空いてしまったこのブログへの投稿も今回が5本目で隔月にも足らなくなった。風前の灯火か。締めにするテーマはサブタイトルに従って、また昨年同様、臓器移植としたのでお付き合い願いたい。前回も報告したが、外部活動として大きかったのは9月の日本移植学会の公募シンポジウムに応募したことである。臓器横断的なテーマのなかのCovid-19後の臓器提供というシンポに以下の発表が採用されたことを再度紹介させてもらう。タイトルは:Controlled DCD(心停止ドナー)に我々はどう向き合うか:心臓移植の立場から、である。

要旨:わが国の臓器移植は法改正後も深刻なドナー不足が続いているなかで、海外でのドナープール拡大への動き、特に心停止ドナー(donation after circulatory death, DCD)中でも生命維持装置を中止するcontrolled DCDが欧州を中心に腎臓だけでなく肝臓, 肺へと応用が進み、ここ56年で心臓移植でも始まっている。わが国では従前の死体腎移植でのun-controlled-CDCが行われていてその復興を移植学会が進めようとしている。

  一方、心臓移植ではcDCDでないと移植が成り立たない。しかし、学会のDCDの議論に心臓は加えてもらっていない。何故除け者にするのですか、ということである。終末期医療での生命維持装置の中止は法律では禁止されていないが現実には広く行われるものではなく、まして臓器提供はとんでもない、という意見が多い。まず、心臓も加えて臓器横断的にドナープール拡大のためのDCD導入を検討して欲しいという訴えである。しかし移植学会は腎臓と肝臓の専門家の意見が主流のようで、私の発表への反応は、ごく一部の提供側の先生以外は今一つである。問題は肝心の心臓移植担当者がこれに及び腰であることである。胸部外科という南江堂が発行している専門誌の2022年度第1巻で「心臓移植の今」という特集の企画があり、いい機会と思って投稿した。阪大第一外科教室では曲直部先生や川島先生の教授時代からDCDの心臓移植の動物実験が行われており、私も盟友の白倉良太先生と共にこの研究を引き継いできたので、3名の連名で投稿した。心停止ドナー(DCD)からの心臓移植を我々はどう考えるか、で1月には発行される。

 さらに、ごく最近の国際心肺移植学会誌(HoffmanJHLT.202140;1408)に心臓移植DCDでの新たな取り組みの論文が米国Vanderbilt大学から出た。そこで、年末の仕事として、この論文の紹介をしながら移植学会の発表内容を同学会の機関誌「移植」に投稿すべ準備中である。完成に近いが、学会誌のどのカテゴリ―がいいのか迷うところもあり、原稿を送って検討を依頼したところである。新春はこれを受け付けてくれるかの返事待ちとなる。

 わが国の心臓を含めた臓器移植の発展を願って、こんなリタイア―者が細々と活動を続けているが、現状を見ると、そう簡単に止めることは出来ない。最後に紹介したいのは、成人先天性心疾患(ACHD)の心臓移植で、日本成人先天性心疾患学会での活動を続けている。その延長でもあるが、来年4月末にBostonで開催予定の国際心肺移植学会(ISHLT)事務局から、ACHDのシンポの座長をしないかというお誘いがあった。喜んで引き受けたが、4月に海外渡航が解禁になっているか、オミクロンが広がっているなかで懸念される。Webより現地での参加をしたいが、どうなることか。

ということで、今年の締めとさせて頂く。

皆様良いお年をお迎え下さい。 

PS:年末には北海道はニセコでの初滑りも出来たので少しは気分が晴れた年末となった。

 

 

2021年9月7日火曜日

臓器移植は公平か 共生の世界に思う

 

最近, 渡航移植の患者が移植後早期に現地で亡くなったという報道があった. ブルガリアでの生体肝移植と生体腎移植である. 正確なことは不明であるが, かなり杜撰な移植であったのではと思われる. 脳死移植が進み, 渡航移植はもう止めにしようというなかでまだこんなことが起こっていることに忸怩たる思いがするのは私だけではないであろう. しかし, ドナー不足は深刻なことの表れでもある.

さて, 久しぶりの投稿になったが, 新型コロナの第5波で我が国が翻弄されえいるなかでコロナの話題では何を書いても自己満足でしかないので中断していた. 私には, 医師の働き改革, 専門医制度, 臓器移植, チーム医療といった限られたキーワードしかないが, 今回は原点の臓器移植に戻ってみることにしたのは, 冒頭の記事によるということになる. もう一つは, パラリンピックが盛大行われ, 共生という言葉が広まっている中で, 臓器移植を受けたいという人にたいして我々社会は公平かどうか, ということを考えてみる機会となった.

臓器移植では心停止ドナー(脳死ではなく心臓停止後の提供で現在は腎臓のみ行われている)の話を以前させてもらったが, 気持ちはいよいよ熱くなってきた. 心臓移植関係者での心停止ドナーの話は現役が及び腰であることから, こんな年寄りが出てきている. 商業誌「胸部外科」で心臓移植の特集の企画があったので応募したところ採用になった. 来年の1月号であるが, 「心停止ドナーからの心臓移植, 我々はどう向き合うか」, である. 科学論文ではないので言いたいことを十分書かせてもらった. これが現場にどう影響するかは心もとない.

この話題に関して, 今月行われる日本移植学会の臓器横断的課題のシンポジウムで同じ内容を発表する.会長が心臓外科医なので採用してもらった感じである. タイトルは, controlled DCD(心停止ドナー)にわれわれはどう向き合うか;心臓移植の立場から」である. 引退した老心臓外科医が今更シンポに応募するなんて馬鹿にされるに決まっているが, あえて学会活動の最後と思って応募した. 採用されたので思いのたけを8分で述べてきたい. しかし, これが移植学会の活動にどう反映されるかはやはり心もとない. 日本移植学会の今のスタンスは, 心停止ドナーからの移植では心臓移植は少し待てというようである. 今度の東京での社員総会(昔の評議員会)で議題になるのか分からないが, 発言の機会があれば執行部の意見の再確認をしたい. 出来れば方針変更の理事長発言が聞きたいものである. 要は, 心停止ドナーからの移植は欧州では全臓器対象に活発化している中で, わが国では腎臓に限っているのは移植に携わる当事者として黙っているのか, という話でもある.

これに関係するが, もう一つの話は, 「臓器移植は公平か」, という命題への問いかけである. 亡くなられた方々からの尊い臓器は社会へのギフトであり, 公平, 公正に希望者へ配分しなければならない, が揺るがせない規範である. 臓器提供が限られる中で, だれがその権利を受けるか, どういう順番か, で徹底したルールを作ってこれまで公平公正を担保してきた. ここで, 今関わっている患者さんについて紹介したい. 64歳の男性, 心筋梗塞を発症し一命はとりとめたが高度の心不全となり, 基幹病院で心臓手術を受けた. 術後は重度の心原生ショックとなり, 機械的補助循環や気管切開も要したが何とか回復し, 3か月後に転院してきた. 廃用性症候群の様相を呈し, 退院も難しく緩和ケアの段階でもある. 心臓の病気だけで見ると虚血性心筋症の末期であり心臓移植の適応となる. 手術前でも同じである. 64歳というと数年前は6263歳であり, 年齢としては心臓移植の適応にかろうじて入る. しかし, 移植の話はされていない. それは本人の意思は別として, 家庭環境で独居であることから門前払いであったと思う.

ここで心臓移植では受ける条件として, 移植後の家族の支援が不可欠であり, 独居の方は原則対象外となる. 心臓移植は補助人工心臓からのブリッジにほとんどがなるが, ここでも家族ないし支援者が24時間同居していることが要件である. ポンプ駆動の急変時の対応は自分ではできなく, 介護者がいないとそのまま死亡ということになるからである. このように, 心臓移植, 特に前提となる補助人工心臓ではそばで支える家族の存在を必須としている. しかも原則は24時間抜けないように,である. これに一般の方はどういう印象をもたれるか. 家族でもここまでやるのは無理というケースもあるし, また本人もそこまでしてもらうのはプライバシーのこともあり, 悩ましい. 訪問看護ステーションの関与やこの分野に経験のある在宅医グループの参加も可能であるが, 全国どこでもというわけにはいかない.

ここで、ガイドラインでの記述を紹介する。支援者はケアギバーと言われている。

「ケアギバーのサポート: 植込型 LVADを装着する患者にとってケアギバーのサ ポートは重要で,配偶者,親,兄弟,子どもなどからの精神的,経済的な支援が治療継続に有益である.原則的には アラーム発生に気づく位置にケアギバーがいることも重要である.ケアギバーは必ずとは限らないが,同居している家族が担うことが多い.また,おもなケアギバーは成人し た者とする.ソーシャルワーカーやカウンセラーなどの社会資源の活用が有効であることも考えられる.

 この縛りは, 10年ほど前に制度が始まった時に, 安全性の担保のために決められたもので, 10年たっても変わっていない. 一方では補助人工心臓を付けて一人で会社へ通勤している方もおられる. ハートマーク付きのバッグを書かけてはいるが. 補助人工心臓ではこの家族(支援者)の24時間(同居)での支援が必須であることは以前より問題となっている. 遠くの親せきが東京や大阪に引っ越してこないと登録できない, ということである. これは緩和すべきではないか, という議論は以前振ってみたが, 規約の改定には消極的である. このお陰で安全が担保されているから変える必要もなく、緩和してかえって危険性を増すのか、という意見である. 今でも関係者間で意見を出せないでいるのではと思う.

確かにそうであるが, 移植は公平に行われているか, 医学的要件以外での差別ではないか, という疑問を生じさせていると思うからである. ここで共生という言葉が登場するのには無理があるかもしれないが, 補助人工心臓で家族支援が得られない方でも社会の支援があればこの要件がクリアーされるのではないかと思うからである. 即ち, 社会の支援, 在宅医療での訪問介護や訪問診療での対応や遠隔診療, ICTでの対応など, やればできるのではないかと思う. お金の問題は大事ではあるが, 絶対ではない. 家族支援がない方へでも移植を受けられるように社会が支援するのが共生の考えではないのか. 移植現場でこういった差別があることを社会の多くの方々は全く知らない話である. 当事者になって初めてそんな条件があるのか, 私はあきらめよう, という現実がある.

共生という言葉の解釈に異論があるかもしれないが, 臓器移植で感じたことである 臓器移植の根幹である「公平」という規範が, 臓器が足らないということであってもやはり守るべきであり, 特に社会的要因で機会が得られないことは避けるべきである.それが難しいときは社会が支援していく道を作るのが関係者の役割ではないかと思う. ドナー不足を便法に使ってはいけないと思う.

2021年5月27日木曜日

コロナ禍が続いています

  ご無沙汰しています。コロナ禍が続いていて、このブログへの投稿意欲も薄れてきたのは歳のせいか、それともあきれ果てて物言う気にもならないのか、自問している毎日です。しばらく振りの投稿で、コロナボヤキの感じで書かせてもらう。

当方のワクチン接種はようやく2週間ほど前に二回目も済んで、コロナ病床を持つようになった施設での勤務も少し落ち着いて出来るようになったかと思う。とは言え、兵庫県から大阪市内までの通勤は車に切り替えている。運動不足を少しでも解消と、病院到着後30-40分の散歩も心がけている。

 未だに収束しない新型コロナ感染蔓延がわが国の医療体制にかってない窮地をもたらしている。病床逼迫というが、そのそも我が国は病院数が国際的にみて異常に多いことは周知の事実である。ただ、これは私立の病院がほとんどで、コロナ対応では前面には出て来ない。とは言え、医療崩壊という中で当方のようにコロナ病床を急遽作って対応している。問題は、基幹病院ともいわれる公的ないし半公的病院である。そこには多岐にわたる設立母体があってそれぞれ独立採算制で苦労している。管轄でいえば、全て独法化したとはいえ国立病院は厚労省、ほかは県立、市立、労災、年金(今はJCHO、尾見先生が理事長)、NTT,各種共済、などなどである。それぞれ精一杯対応はしているが、敢えて言わせもらえれば予測範囲である。

何度も言っているが、この国難において、旧国立病院(名前は医療センターとかになっているが)のいくつかをコロナ専門病院に切り替えるといった英断は何故できないのか、間接的ではあるとしても厚労省管轄であるのに。大阪市立十三市民病院の例はごく少数派である。こういうなかで、私立の病院が業を煮やしてコロナ専門病院として頑張っているところも身近にみられる。しかし、こういう話が必要なのは昨年の第2波のころであり、もう遅きに失していてやむなく民間中小病院が駆り出されている事態になっている。そのためにどれだけ税金を使っているか。前にも言った集約化が出来ていない付けがきているが、もっと大事なのは国難での緊急的税金の投入を機能的施設集約に充てる英断が欲しいということである。

さて、日本医師会の一員としての話であるが、日本医師会会長が盛んにTVで警鐘を鳴らしているが、話す相手が違うでしょうと言いたい。医師会員に向けた話を市民に聞いてもらうスタンスでないと、今巷間に流れているような不評を買うことは当然であろう。医師会長が、皆さんご注意を、そして危機感を煽って国の施策への注文、こういうことを市民向けに言うことの意味が分からない。かかりつけ医が頑張っていて、そこをどう活用するかの策を出すのが医師会の役割で、現場との乖離が激しい。ワクチン接種でやっと姿が見えてきたとはいえ、ごく一部であり、まさに病診連携の本質が問われているのでは。日本医師会での勤務医の発言力はほとんどない現実もある。

今回言いたいのは、大規模ワクチン接種での医師不足対応である。打ち手を医師以外の専門職に広げるのはいいとして、会場で必要な医師が不足している、と大阪市では公募をしたところ、短時間で埋まってしまったという。私の周りでも、もう現場に長らく関与していない方もボランテイアー精神で手を挙げているは歓迎する。問題は日当である。今日の毎日新聞でも書かれているが、医師は平日で10万円、という。その根拠は一般の臨時診療での相場らしい、こうでもしないと集まらないと思ったのかもしれない。しかしそれは違うでしょう、と思う。看護師は打ち手で苦労するのに時給で数千円と思う。これはおかしいと一般の方もそう思うでしょう。国難の時に、しかも診療ではなく問診でのスクリーニングに、平時の対価を求める(提供する)のですか。救急対応は別に専門医がいるのでしょうし。アルバイト気分で手を挙げたといわれたら怒られるでしょうし、自分が要求したのではないと。日当辞退せよという意味ではなく、こういう時こそ日本医師会が率先してガイドすべきでしょう。費用負担は医師会として何らかの対応をする(研修ポイント付与とか年会費免除とか)、とかです。因みに自衛隊の集団接種では、自衛官であるが、医師も看護師も同じ日当3000円である。そうです、ここで医師と看護師とか職種で差を付けない、この精神(ポリシー)が大事と思う。なぜ日本医師会はこういう市民が見ている所で英断が出来ないのか。 というボヤキで失礼します。

2021年3月24日水曜日

新興感染症と医療専門職

   
   今年の1月に投稿をしてからいつの間にか3月も終盤になってしまった. Covid-19の感染拡大が第3波から徐々に収まりつつあるなかで,感染者数は下げ止まり, 第4波の危惧, 変異株の登場, 非常事態宣言を止めるか続けるかの相変わらず焦点が絞れない議論が続いている. ワクチン接種が始まっても肝腎のワクチン自体の供給が予想以上に遅れているなどの現実を見ていると, コロナの話題をまた取りあげる気も薄れて, 投げやり的な気分になってしまっている自分が情けなく思う. とは言え思い直して最近感じたことを書くことにした.

   先日, 読売新聞が感染症パンデミックへの提言を出している(3月21日朝刊、図参照). 感染症医療を「戦略的体制に」, ということで7つの項目を挙げている. 病床を「有事体制」に, そして「病院の役割分担を進め逼迫を防ぐ」, 「ワクチンの確保に国は全力を」, など国の役割や作戦についての提言を出している. 新興感染症への国家的取り組みの不備が露呈したなかで, これをどう改革していくかの提言である. やはりこのような世界を揺るがす感染症パンデミックに備えるには, これまでの一国立研究機関と都道府県の保健所では無理なことが実証されているわけで, 新興感染対策を包括する保健衛生上の危機管理組織の抜本的改革が欲しいところである. それぞれ重要なことであるが, ここでは提言の最後の, 「保健所の職員を増員せよ」, を取り上げてみる.

    これはなんとも気の抜けた話で, 保健所自体がそもそもパンデミック対応を想定していないし, 人員も削減してきた背景を無視してただ増員というのはどうかと思う. 私も看護師や保健師の育成に関わった経験から, 看護学生の中で資格は取っても実際に保健師になろうとするものはごく少数であった. そもそも保健師の役割は多岐にわたっており, 今後はどういう方向でもって育成するのか, 保健師に加えて保健行政に携わる専門職種をどうするかの話しでもある. 以前は看護学生は卒業時に国家資格として看護師と保健師を取ってダブルライセンス取得者となる, という流れがあった. しかし, 保健師資格をとっても実際は看護師としてのみ働くものが殆どであったことから, ここ10年ほどで保健師育成制度は二つに分けられた. 一つは, 従来型ではあるが学部教育過程に保健師コースを併設し, かつその定員を各大学10名程度に制限した. もう一つは看護師資格取得後に1年の保健師受験資格を取る専門コースの設置である. 共に, 保健師の役割を明確にし, 保健所や行政への入職者の確保に繋げようとするものである

 しかし, 受け皿は古いままであり処遇もあまり改善していない現状もある. 数年前の調査で, 全国の約8,000人の保健師のなかで保健所勤務者は15%程度に留まり, 半数は自治体の保健センター勤務である. 今回のコロナ禍で保健所の保健師が現場でのキーパーソンであると共に, 何でも屋的な仕事となってきている. 一方では看護師と共に過酷な働く環境が示されているわけで, 保健師希望者が今後増えるのかは疑問である. 当然ながら人員増では限界があり, 感染制御に特化した新たな国家資格を作ることも考えないと, 何時までも保健師に頼っていては現状と変わりないであろう. 心不全領域では特別法が出来て心不全療養指導士制度が発足したが, 日本循環器学会の会員資格を必要とし, 学会認定としたことは大いに問題であることは既に述べたたが, これとは別次元で考えないといけないであろう.

  繰り返しになるが, 現在の保健師の役割から言うと, 国家的な感染予防対応には荷が重い. 勿論, 組織の中のメンバーではあるが, 責任と多くの現場での仕事を担当している. 保健師や看護師が急遽かり出されて, それ頑張ってくれ, というのは姑息的に見えてくる. 当座は致し方ないが, これからの話しでは, 増員ありきでは心許ない. やれ人を増やせ, 家庭にいる保健師資格を持った看護師を現場へ, といった付焼刃的な対応しかできない現状があり, 10年後を見据えて保健行政の仕組みから, 新興感染症対応の新たな分野を作り, そこで必要とする新たな人材の資格制度が必要であろう.
新興感染症対応を行う組織を支える人材育成が重要であることは論を待たない. まず医師については感染症専門医の絶対数の不足が指摘されている. 現状で感染症専門医が全国で約1600人であるが、働く領域では公衆衛生や、基礎研究分野もあり、感染症の医療に医師として携わっている数は限られることになる. わが国では専門医制度設計が新たに段階に入っているが, 感染症専門医をどういう枠組みにするのか, この期に及んでも見えてこない. 枠組み作りでいえば基本領域の整備に何年も要していて, 感染症専門医を基本領域の上におくのか(2, 3階), 横断的専門医とするか議論が纏まってもいない. そもそも基幹病院の現場で不可欠なサブスペシャル領域専門医の整備が遅れている. 私見であるが, その背景には今回の新たな専門医制度において, 厚労省が強引に入ってきて制度作りと運用において法律を作り主な決定事項は医道審議会マターとしてしまった付けが来ていると思っている. 感染症専門医にせよ, 急場で出来るものではなく, 信頼される専門になるには10年はかかる現実があることを真剣に考える必要がある. ここは何時ながらの私の専門医制度への意見である。

  看護師についても, 感染管理認定看護師は全国で約3,000人と、各種の認定看護師制度の中では数としては最も多くなっている。確かに多くの病院で活躍してはいるが、病院がやたらと多いわが国では各施設で認定者を充足することは困難である。また認定看護師制度も日本看護協会が舵を切って特定研修をその修練要件に加えている. これでは質の向上があっても入り口は厳しくなり, 必要とする数の人材を育てるにどう働くか懸念される. 質も大事であるが, スケールメリットを持たせないと十分な力が発揮できない. このことは, 昨年の第17回日本循環器看護学会の特別講演で話をし, 論文を学会誌に載せてもらえることになっている. 認定看護師, 特に感染専門の認定看護師にはより横断的なかつ柔軟性をも持った仕組みが大事である. このCovid-19パンデミックにおいて, 日本看護協会も特例措置で感染管理での認定者がいない病院での新規申請者には補助金を出すところまで来ているが倍増計画はまだ見えてこない. しかし、認定看護師を増やしても新興感染症対応が出来るかというとそうではない。例えば保健師資格を持ちながら感染制御を専門とする、といった新たな制度もこの際考えるべきであろう。

  さて読売新聞の提言への専門家のコメントもいくつか紹介されていたが, お一人が, コロナ対応の病院として国立病院の役割を指摘している. 私が新聞等で見てきた限り国立病院をコロナ専門病院へという意見は初めてである. やっと, しかも緊急事態宣言が解除されるといった時期にでてくるという何とも不思議な話である. 国立病院という言葉をCovid-19対応で使うことが憚れる背景があるのではと勘繰りたくもなる.
 

  Covid-19における保健行政の役割は危機管理の根幹であるが, それえを支える医療職者の制度はどうなっているのかを, 読売新聞の提言の一部を取り上げてご批判覚悟で私見を述べさせてもらった.   


                                                                       

2021年1月23日土曜日

Covid-19と共に年明けしました 論点は施設集約から

    大寒も過ぎた今になって遅まきながら新年のご挨拶となりました。Covid-19の猛威がわが国でも続いていて新春を祝う雰囲気でもなかったので新たな投稿も滞っていました。Covid-19以外の話題があればいいのですが、残念ながらこれで書こうというネタがないというか、以前から自白していることですが付き合う環境が限られてくることもあって書くというモチベーションが上がらないということです。歳のせいかもしれません。でも、70歳代最後の約9か月、なんとか書き続けけたいです。 
     
  さて、横浜へのクルーズ船でのCovid-19集団感染が起こってほぼ1年になります。昨年4―5月の第一波もその後収まり、このまま収束へと繋がると思っていたわけですが、その後の第2波、さらに11月からの第3波と大変な勢いは周知の如くです。今年に入って1月にようやく出された緊急事態宣言、もう既に2週間になりますが、何も変わらないといった様相です。With Coronaではなく打倒Coronaだ、と言い難くなってきたのではと感じます。 医療崩壊がもう始まっていると我らが代表の日本医師会会長も盛んに発信しておられます。知事さん方も、病床ひっ迫と警鐘を鳴らし、感染拡大を止めるための呼び掛けをしています。私の勤めるごく普通の一般病院、というか療養病床を持ちながらICUもない病院、にもベッドを空けるようメッセージがどんどん出ています。社会的使命もあり、post-Covid-19は受け入れるようにしていますが、一歩間違うと病院自体が崩壊します。地域の中小病院はもともと倒れるかどうかの瀬戸際で医療を行っているわけで、空きベッドを活用するよう私的病院も頑張れと言われても、そうしたいのは山々でもクラスターになったらと考えたら二の足を踏まざる得ないというのが実態です。医療現場は疲弊してきていますが、崩壊ではないと思います。でも、崩壊を止めるのは今だと思います。国の施策が問われます。 
  
   我が国は世界に類のない位病院の数が多い国で、メデイアでも紹介されていますが、医療体制が分散しているわけです。大学病院や基幹病院、私的な大病院でも、1病院当たりのベッド数に制限を置き(せいぜい900)、韓国や中国では普通にある1500 床2000床の大病院が作れないこともおかしな規制です。これは日本医師会が開業医の代表の立場で反対してきたという歴史があります。日本医師会会長が盛んにメデイアに出てきますが、公的病院の代表は出てきません。全国国立病院長会議、全国医学部長会議、国立病院機構、日本赤十字、といったところが沈黙を保っています.独立行政法人となった国立病院機構は140の病院を纏めていますが、昨年の5月に日本医師会内の会議で出された資料があります。これまでの対応の紹介とこれ以上の感染が拡大したらどうするかについては、①今後の中長期的な医療提供体制については、国を挙げて議論する必要があると考えている。 ②国難ともいえる健康危機管理問題が発生した際に病床も人員体制も余力がなく、必要な体制を速 やかに構築することが難しい。例えば、NHO でいえば現有の結核病床の一定数を新興感染症にも 対応できる機能を持つ病床として都道府県等の支援を得つつ確保することも、検討されるべきではないかと考える。としているが、その後の発信はないようです。思い通りに動けない実態があることも理解はできますが。地域医療推進機構(JCHO)もCovid-19対策のリーダー尾身氏が理事長ですが、その活動が問われているようです。ここで問題は、何が課題かの「分析と発信(公表)」がないことです。これ無くして改革はできないでしょう。わが国の医療供給体制(病院)がいかに脆弱で問題を孕んでいることが国難時に明らかになってきたわけです。この時期を大事し、医療界が自分たちの世界に安穏と暮らしてきたこれまでを振り返って、論点整理がまず必要です。そして大事なのはその後の課題解決です。  

   私が尊敬する東京慈恵会医科大学外科講座の大木隆生教授のCovid-19対応での提言が最近出ているようです。医療崩壊とは何を基準に言っているのか、病床ひっ迫の根拠は信頼できるか、ICUの活用は出来ているか、という問題提起です。心臓血管外科医の働き場が手術室以外はICUであり、私も大学病院のICUの異常に少ないことを長らく憂いて来たことでもあります。大学病院は現在の全ベッド当たり阪大病院のように特段多い所で5%(救急部門を除く)と思いますが、地域の中核的大学病院では少なくとも10%にするということが出来ない、あるいはしようとしないのは何故かということも問題でしょう。  
  さて長くなりましたが、ここでかねてからの私の持論を展開すれば、施設集約、です。このテーマは、医師の専門医制度や医療(外科手術)の質の担保、ということで使われるキーワードであります。かなり昔ですが、フランスのパリ市には5つほどの市民病院があってそれぞれ独自に活動していたものを、英断で一つの新しい病院に纏めたことがあります。当初は各病院の医師が反対していたそうですが、今はそんなことは昔話です。現在、Covid-19での活動が知りたいところです。我が国でも、自治体病院が沢山あって資源の活用上無駄が多く、複数が関わる地区では一つにまとめる、という方針がありますが現実はそうはいきません。でも兵庫県では既に進みつつあります。機能的には大阪府下、北摂地区での小児救急体制の集約はかなり前から行われています。しかし、ハードや人材、市民の意見、といったことで簡単ではないわけですが、Covid-19への対応で施設の分散が大きな壁になっていることも分かってきました。施設(ハード)集約が出来ないからベッドやICUを分散させるしかない、という望ましくない事態です。一方で大阪市の十三市民病院の機能特化、大阪府の専門センター開設、東京都立広尾病院、という動きも出てきていますが限定的です。これを維持し伸ばせるか、Covid-19以後もそれが有効に活用されるか、が課題でしょう。市民病院移転反対、市民病院統合反対、という市民的エゴが長く続いてきた壁でもあります。この国難時に意識が変わるといいですが。  

  まとめですが、施設集約はすぐにはできませんが機能集約は何か強いきっかけがあれば進み出せると思います。施設集約のハード改革の前にできることがあるはずです。Covid-19の痛い教訓をどう生かすか、施設集約は避けて通れないという社会のコンセンサスが必要で、今こそ社会の意識改革が問われています。