2017年7月1日土曜日

一点の曇りもない


   早いものでもう7月です。関西でも梅雨明け宣言がないまま猛暑が来ています。夏休みまでもう一息、踏ん張りましょう。
 
さて、最近の国会は、国家戦略特区による愛媛県の獣医学部新設で姦しい。その決定のプロセスについての疑惑ありとの野党側の攻勢が、国会閉会後も続いている。そういう中で、「決定プロセスに一点の曇りもない」との総理の発言があり、それ呼応するかの如く戦略特区の諮問会議の民間議員メンバーから、はたま担当の地方創生担当大臣、さらに官房長官まで、一点の曇りもない、と右へ倣え、の発言である。この言葉は政治の世界でこれほど多用され、注目を集めるのは珍しい。しかし、問答無用に似た感じがして何か違和感を覚える。

この言葉は私にとっても曰くつきの言葉である。一点の曇りもない、という結果説明ではなく、一点の曇りもなく、という前もっての言葉であるが。それは、前にも書いたと思うが、臓器移植法か出来て脳死からの臓器移植が可能となった頃、担当行政官はドナーの脳死判定へのプロセスや診断、そしてレシピエント選択の場において、この言葉をもって関係者への警告をする傾向にあった。和田移植の轍を踏まないようにと睨みを利かしているのである。厳しい法律のもとで、また新た出発において、それこそ曇ったことや不信を抱かせることをするわけがない。法成立後20年間、関係者は性善説で守られながら、最大の努力をしてきた。しかし、時に性悪説が顔を出す。その時の言葉が、一点の曇りもなく、であると思っている。

現在の移植現場でも何か議論のある事態があると、「一点の曇りもなく」が出てくる。法律の運用においていまだに行政が口にする言葉である。私に言わせれば、和田移植の呪縛がまだ生きている、ということである。心臓移植が円滑に再開されて、此の呪縛は消えたはずではないか。しかし、移植医療の新たな展開になるのではという議論の場面でこの言葉が使われることが問題なのである。大事な局面で、恰も水戸黄門の御朱印のごとく登場する。また医療者側がそれをあたり前と思ってしまっていないか。まさに上位下達方式で、移植医療が萎縮してしまう。

何故これに拘るか。移植医療の第三の展開をしようとする現在、この言葉は現場を萎縮させ、新たな進歩を阻む恐れがあると思う。何も法律違反、条例違反、をしろ、勝手にさせろ、とは決して言ってはいないいし、そういうことは出来ないしない。しかし、此の膠着した移植医療の現場を何とか変えていこうとするならば、前向きの議論も欲しい時がある。その時に此の呪縛的な一言をあえてお役人に言わせない、というのが移植に関わる専門医療者の矜持ではないか。 

政治の場面で今目立っているこの言葉はこれから更に頻回に使われて、本当の議論が疎かになりはしないか危惧しながら、臓器移植での使われ方についても気になっているので紹介した。ない、と、なく、の違いはあるが、私見を書かせてもらった。
 

2017年6月27日火曜日

藤井聡太四段、29連勝の快挙


 将棋の藤井聡太四段の公式戦29連勝という快挙に日本中が沸き返っている。14歳での偉業に感心どころか驚きで、藤井四段の頭には最新の将棋ソフト、いやAI、が埋まっているのであろう。囲碁も将棋もコンピューターの格好の餌食になっているが、将棋はこれで大いに挽回し、将棋界も面目躍如である。医学の世界もAIが席巻しようとしているが、一人の人間の頭、大ベテランでも然り、培った医学知識はAIに到底及ばない。医学ではコンピューターとの挑戦は意味がないが、そのうちTV番組で、一人の難病の患者さんの診断と治療の選択を、研修医(ベテラン医もあり)対コンピューター、なる対決があるかもしれないが、勝負は決まっている。しかし、医学ではAIとの連携がこれからの大事な道になる。医学教育ではどうか。6年間の内34年の沢山の知識詰め込み講義と試験は要点だけ残して、AIを如何に活用するか、に代わるであろう。そして、重要な基礎知識の習得は必須であるが、その後のAIと付き合うための応用力の基礎となる頭作りが必要になるのか。柔軟な頭と応用力を備えた若い医師がこれからの医学・医療を支えるようになるのか。
 
 医学部教育ではAIを上手く使う頭を鍛えることが要になるのではないか。ただ、そんな医師ばかり作っても、大学病院やがんセンターなどではいいが、地域医療、へき地医療、在宅医療、介護や終末期医療には向かないであろう。ということは、これまでの知識詰め込教育の基本は変わらないで、それを終えた後にAI用ブラシュアップ教育が重要になるのか。医学部での教育だけでなく、生涯教育も変るのか。こういうAIの話は、診断学や抗がん剤治療での活躍が期待され、言い換えれば内科系の医学での話でもある。でも外科は関係ないと言ってはおれない。AIもどき手術ロボットが押し寄せてくる。外科もうかうかしてはおれない話である。
 
 将棋の世界から医学の世界をコンピューターという共通語を使って垣間見たような話でやや無理のある展開になったが、何れにせよ素晴らしいという言葉を通り越し、興奮と驚きでもって藤井四段の快挙を見させてもらった。

2017年6月24日土曜日

続けることにしました


 このブログもそろそろネタ切れでもう閉じようかと思って、徒然なるままに、というエピローグを2回書いたのですが、この間に大阪での学会に二日ほど出てきました。自分の整形外科的な問題で最近はあまり学会出席は限られていたのですが(フットワークが悪いということです)、教室の同門の方が会長でもあり、最近注目している成人先天性心疾患のセッションもあり、出かけてきました。そこで、前から学会でお会いする方で先天性心疾患専門の中堅心臓外科医がおられ、時々私のブログへのコメントを頂いているのですが、その方が、先生止めないで下さいよ、いつも楽しみにしているのですから、と言われてしまいました。学会とかで“ブログ見てますよ”、と言われることは実際殆どないのですが、この先生は私のものの見方に共感を持たれているのでしょうか時々声を掛けて下さいます。ということで、この先生に背中を押されて、考え直してもう暫く続けることにしました。これはあらかじめ作ったシナリオではありませんので、誤解のないようにして欲しいと思います。

さて、今回の関西胸部外科学会でのトピックスを上げると、毎度のごとく新しい機器(デバイス)の登場が目立ちます。大動脈瘤へのステントや新しい人工弁など、外国製のものが軒を連ねています。その背景には、低侵襲で手術を安全に、という強いコンセプトがあります。もう危険度の高い手術ではなく胸を開かないカテーテル治療で済みますよ、です。では心臓血管外科医は何をすればいいのか。一生懸命新しいデバイスの開発や導入をしても、その先には外科医のいない手術室で内科医か放射線科医が仕切っている、という像が浮かびますし、実際我が国でもそういう状況が始まっています。
 
最後に紹介されていたのは、縫わなくていい大動脈弁、でした。人工弁手術は外科医が修練して糸で縫って固定していくのですが、それには手術の時間が掛るので、縫わないでそこに置くだけでいい、というものです。子供だましですが、手術時間(心臓を止める)が30分短くなるのと、術後に漏れが出たり外れたりする危険とどちらを選ぶのか、私には答えは明確です。しかし、新しいものが好きな人たち(かって、私もそうだったかもしれませんが)には簡単に植えられるものに、そして何かしら新しいものに魅力を感じるのかもしれません。基本的外科手技の修練をする必要のないデバイスが登場しても、担当外科医が急にトラブルが生じたときの緊急手術が出来ない、というとんでもない事態が起こるかもしれません。あるいは、シニアーの心臓外科医がそういった緊急時のためだけに別室でじっと待機している、という情けない状況も出て来るかもしれません。漫画になりますね。

そういうことで言えば、私のルーツである先天性心疾患外科では、特別の修練と経験、そして努力で出来上がった専門小児心臓外科医が活躍しています。そういった演題を聞いていると、若返ってきますし、その場に入って議論をしたい、と思ってしまいます。その結果、老害的な?発言が出てきてしまいますが、若い人に良い意味で刺激になればと自己満足しています。自分の現役時代に議論されていたテーマが、多くは解決しながらまだ続いている話もあります。あるいは、歴史ではないですが、また繰り返している、ということもあります。でも小児心臓外科は、デバイスに翻弄されないで、腕が勝負、の世界が続いています。

今回の学会で先天性心疾患の話題が多かったのですが、その特徴は対象が若年でなく成人の演題が多くなっていることでした。症例報告が多く採用された学会であったからかも知れませんが、成人先天性心疾患の手術が増えているということでしょう。その成人先天性心疾患をまとめたパネルディスカッションがありました。その中で、新しいデバイス(人工心臓ではない)治療や再手術、お産の話もあり、皆様の努力には感心しました。でも、根治術後や姑息術の遠隔期の心不全症例で、最後の砦でもある補助人工心臓(移植への橋渡しのみが保険適応なのですが)への取り組みが施設間で異なっていることも気になりました。心臓移植となると施設が限られるのですが、補助人工心臓でいうと移植施設の連携施設として条件をクリアすれば認定を取れます。
 
また、成人先天性への心臓移植は現実的ではないのですが、適応となるであろう、また残念ながら亡くなってしまったが心臓移植をしていれば助かった、という症例があるはずです。そういう症例がどの位あって、またどの時点を超えれば予後が悪いか、学会等で調べて行こう、という動きがあります。小児循環器学会のリーダーである座長の先生もこのことを強調されておられました。是非進めて欲しいと思います。因みに、私が成人先天性疾患と心臓移植についてまとめた総説(英文ですが)が丁度雑誌に出たので、タイムリーな話題であったと自分で勝手に満足?しています。
 
とうことで、またぼちぼち書かせてもらいます。お付き合い下さい。

写真は上記の論文の最初のページです。日本胸部外科学会には英文雑誌があり、そこで採用してもらいました。

2017年6月22日木曜日

徒然なるままにー2


 

私が臨床医学を通じて医学関連の社会的な制度作りに関わったのは、移植医療の普及と医師の卒後教育です。共に現役引退後の現在も続いているものです。長いです。前者は法律が出来て20年の節目を迎えまだ多くの、かつ基本的な課題が残っている状況ですが、後者の専門医制度は新制度への移行の最後の詰めになって暗礁に乗り上げています。因みに私は、専門医制度(卒後3年目から)の前段階である初期研修制度(義務化)の導入時(2004年頃)は付属病院長として厚生省の会議に出て2年は不要で1年で充分と、厚生省の意向に反対した過去があります。また、それ以前では、私の医学部卒業時はインターン制度反対で医師国家試験ボイコットをしたクラスでした。幸い、半年遅れましたが免許はもらえました。これまで3つの医師卒後研修問題に関わって来たわけで、もう何か因縁的です。

現在の専門医制度改革は、今になって無理に漕ぎ出そうとしてさらに混沌としています。理想が高すぎた、厳しすぎた、と言われるプグラム制の提案に主に関わったものとして、最後の詰めの理事会には入っていませんが、現在の状況には大変失望しています。新制度は、卒後3年目からのこれまでの専門別研修制度の不備を直して、各分野の認定される専門医の質の担保と認定制度の標準化を目指し、国民的にも信頼できる研修制度を作ろうとするものです。この制度の運用を、学会主導ではなく、公平公正に進める新たな第三者機関(専門医制度機構)に任せる、としたのですが、この新しい機構の信頼が無くなっている状況で、困ったことになっています。


今交わされている議論ではその本質が見失われて、政治や組織・団体の縄張り争いに若い医師が翻弄されています。我が国の医師生涯教育(卒後教育)のシステム作りで言うと10年も20年も後退りしてしまうのではと危惧しています。行政は初期研修制度導入で生じた混乱への反省もなく、文科省と厚労省の縄張り争いが反ってひどくなっているようです。そのなかで地域医療が壊れないように、という錦の御旗のもとで、行政や大学外の医療機関の方々の声が大きくなり本来の方向を変えてしまっている状況であります(大いに私見です)。これまで専門医制度には傍観的であった日本医師会が、若手医師の確保で苦労している地方医療行政や病院団体と手を握っての方向転換でしょう。初期研修の導入時の議論の再来ですが、今度も大学医学部の医局講座制度への反旗が翻っているという構図です。

また、医師のネットの世界では、専門医不要論、機構は悪、学会は資金集めに奔走、一部の学会や大学のボスのやっていること、など批判が多いようです。現在の学会で作っている専門医制度(広告できる制度で厚労省承認)はある程度広まってきた段階で、何故変える必要があるかの説明不足になったのは、大学・学会主導で行ったことでもあり、反省点でしょう。丁寧な説明が不足していた、という安倍首相の答弁のようですが。

さて、大学医学部(医局)に任せていれば医師の配置に行政が口を挟めなくなり、地方病院の医師不足はさらに深刻になる、という意見が地方自治体病院の方々から出ています。しかし、全国医学部長会議も言っているように、大学医局の役割なしでは地域医療体制維持が出来ないことも理解すべきです。大学医学部は、近隣や遠隔地の病院への医師派遣で地域医療の確保もしないといけないのでその役割は大変です。2004年に始まった初期研修制度以来、大学に残る若手医師が減って、地域医療機関への人の派遣が出来なくなり地域医療の崩壊に繋がったのです。そこで今回は(地方)大学医学部にも人が集まるように修練基幹施設条件で大学医局優先としたのですが、これが裏目に出たのは、大学側が張り切り過ぎて、過度に人集めをする気配が出て反対ムードを作ったようです。大学側にも反省点はあるでしょうが、結果的に大学優先度がかなり緩和された制度に変わっています。ついでにプログラム制も骨抜きになったようです。これは一種のポピュリズムでしょう、本質を忘れて目先のことを優先しているので、冒頭の10年―20年後退、の意味はここにあります。

米国の様にレジデント(卒後5年間)の給与はその病院からではなく、保険機構(保険支払い側)、医師会、製薬企業、が集まった機構から出ます。医師の研修制度をしっかり作ることは国の保健制度の根幹であり、そのためにはお金は出すが、研修施設や指導体制(プログラム)のチェックは厳しくなっています。第三者機関によってその病院主導のプログラム(外科プログラムとか産婦人科プログラム)が認めたもらえることで若い人が来ます。指導体制の担保をしないと研修医も来てくれません。来なかったラ認定取り消しで、若いレジデントなしで診療しないといけません。受ける側はレジデント終了して専門医資格が取れないと病院就職はなくなります。厳しいですが頑張れば道があります。給与も良くなります。これをそっくり真似ることは出来ないのですが、何が大事かを知る上では無視できません。

日本は、専門医研修医の給与はその勤務先病院が出します。専門医資格があっても給与は変りません。これでは確かにお金払って資格取りに励む気が薄れます。給与に返ってくるようなインセンテイブがない制度には魅力を感じないのは当然ですし、新しい制度始まっても個人の処遇が良くなる訳ではないでしょう。しかし、こういった制度改革がないと個人へのフィードバックというインセンテイブンの道もなくなることも若手医師の方々は理解すべきでしょう。医師にとって生涯教育、継続教育は不可欠で、これなしでは信頼される医療は出来ないわけで、そのためにはまず専門医制度がスタートである、という共通認識に戻って考えることが大事なのではないでしょか。

長くなりましたが、それ程この問題は複雑である、ということでしょう。

 

 

 

 

2017年6月15日木曜日

徒然なるままに


先日、関西にも梅雨入り宣言が出されましたが、よくあることでここ数日好天が続いています。日中の気温からはもう夏の始まりで、これからどうなるのか、毎年の様に地球温暖化の現実を突きつけられています。米国のTrump大統領はパリ協定から脱退すると宣言していますが、これかどうなるのでしょか、国内、そして世界情勢も混とんとして来ているようです。

さて、これまで長らくこのブログ的なもの(?)を通して、医療現場で私が関心を持っているトピックスについて発言をしてきました。兵庫医療大学学長ブログから変身してもう4年にもなり、自分自身何故こんなに長く続いたのか不思議に思っているくらいです。暇になったことが第一でしょうが、文句言いの性分、良い恰好をすれば批判精神旺盛、が続いているからかも知れません。学術的な視点では、論文や学会発表では、本当にそうなのか、信頼できるか、というcritique、批評、から始まるわけで、ここでもそういう雰囲気を持ち続けて来たからかもしれません。その流れで社会的な出来事や動きにも反応してきたということでしょう。

これまで何度か終了宣言めいたことを書きながら何とか続けてきました。でも、やはり寄る歳には勝てないというか、ネタ不足も深刻で、アンテナも錆付いてきているので、そろそろ終了宣言をしようかと思います。しばらく休憩して、また気が向けば再開もあり、というと休息宣言になるかもしれませんが、これまで陰で支えて頂いた多くの方々に感謝申しあげます。最後は最近の世間のいろいろな動きについてのコメント集です。

 

① 政治の世界には踏み込まないことにしていましたが、最近の日本の国会の動きをみてかなり憤っている一人です。自分の学生時代のことで言えば、安保反対、岸潰せ、でデモに参加した経験者です(過激派ではありません)。そういう流れから言っても、最近のいろんな国内、国外の動きの中で我が国の進んでいる道は大丈夫か、という危惧が年々強くなっています。英国や米国の二大政党体制に程遠い状況で、もうそれも来そうにない、という雰囲気は大変残念に思います。今の国家の動きを見ていて、批判を甘んじて受けそこから議論を始めて納得のいく決め方で新たな通を作る、という基本的なことへの理解、またそれを守る気概が欠けているのではと思います。

何れにせよ、国会議員は多すぎで、多くの議員は多数決の時の1票扱いです。また、ムラ政治が国にも繋がっている時代遅れも最近反ってひどくなっていると思います。国民の政治への関心が薄くなってきていることも背景にあるでしょう。自分の周りさえ良ければ後は無関心、という雰囲気が若い人たちの間で強くなっているのではないでしょうか。日本は主体性を持ってどういう道を進もうとしているのか分からなくなってきました。

 

次のテーマは専門医制度と持って書き始めたのですが、どうも長くなりそうですし、今朝の国会参議院では共謀罪が強引に可決されたこともあって、続いて書く気が薄れました。残りは次回にします。最終と言いながら、何か未練がましくだらだら続けることに自分でも違和感がありますが、お許しを。

 

2017年5月30日火曜日

DNAR(DNR), 蘇生術をしないということの誤解。


 最近の循環器系診療においては他疾患と同様に高齢者にどう向き合うかが課題である。先進的な治療法、特に低侵襲手術の普及に加えてデバイス治療(体内植込み型医療機器)の発展も急速に進んでいて、日々治療法の選択において苦慮する場面が多くなっている。高齢者の循環器医療では心臓発作、なかでも心停止での来院や経過中の心停止発生は少なくない。これはある意味で終末期医療に関連することである。
また、補助人工心臓の普及と高齢者の問題は323日の投稿で少し触れさせてもらった。補助人工心臓植込み後に脳障害を来してしまった症例への対応では、別の意味での終末期医療が待ち構えている。薬や治療の中止や軽減などの緩和対応は補助人工心臓患者さんでは難しい。それは心臓の代わりの人工ポンプは電気と機械で駆動しているので、電源が入っている限り打ち続ける(働き続けるが正しい)ということで、これまでなかった事態が出てくる。
そういう中で、循環器救急医療に関係する学会関係の動きで注目されるものがある。今回は日本集中治療医学会[ICU学会]の話題にさせてもらう。それは、DNARである。
DNARとは(Do not Attempt Resuscitation) の略で、心停止時に心肺蘇生(cardiopulmonary resuscitation, CPR) を試みない(行わない)ことを意味する。一般にはDNR(Do Not Resuscitate 心肺蘇生をしない)として知られているが、そこに潜在する救急医療や医療倫理での問題に正面から取り組んでこなかった我が国の事情があるようだ。特に救急現場でのDNR,治療撤退、の判断は現場任せである。このことは、最近の医学界新聞(3224 , 2017/5/22) に詳しく記載されているので、そこからのエッセンスをピックアップし紹介する。

前段では、米国医師会(医学会)が1991年に公表した指針で、「DNARは医師のみならず関連するすべての者がその妥当性を繰り返して評価すべきであり、心停止時のCPR以外の治療内容に影響を与えてはいけない」というものである。なお、DNARは当初はDNR(Do Not Resuscitate 心肺蘇生をしない)とされていたものである(我が国では一般にDNRとして使われている)。
DNAR( DNR)は心肺蘇生(CPR)を試みない、即ち、高齢者や活動性の悪い患者さんなど予後不良と判断される場合には心肺停止時に胸骨圧迫や人工呼吸はやめましょう、というものである。しかし、そこには、CPR以外のICU入室や薬剤、点滴、などをDNAR指示により自動的にこれらを不開始、差し控え、中止すべきではない、ということである。救命延命処置すべてを放棄するものではないということである。我が国ではDNRが一般臨床に導入されて30年以上になるが、この背景が理解されず、蘇生措置を最大限行うことの弊害を考えて、しない選択も大事ということになったように私は思っていた。加えて、裁判事例では終末期医療で人工呼吸中止の是非に法律論が強く出て、その本来の趣旨が理解されないまま、危険な世界には入らないという風潮が強くなったように思われる。しかし、集中治療関係の医師は、心停止時に即断でDNARと判断し、その結果安易な終末期医療が実践され、本来すべき究明の努力が放棄されているという危惧が持たれていた。なお、現場の調査では、心停止時に救命措置を行わないとする判断根拠には、高齢、日常の活動低下、認知症、身寄りがない、寝たきり、などである。なお、これは入院治療中の患者さんないし家族がサインするDNRとは違って、そういう意思表示が前もってない緊急の患者さんが対象と理解される。(後述;これは私の誤解で、まさに入院患者さんのことが想定されていて、事前指示でDNRが記載されている場合が主な想定場面です。)
さて、今回、日本集中治療医学会が出した勧告(DNAR指示のあり方についての勧告)の要旨を紹介する。
1)     DNARの指示(担当医が出す)は心停止時のみに有効である。心肺蘇生不開始以外は集中治療室入室を含め通常の医療・看護については別に議論すべきである。自動的にその他の措置や治療を差し控えてはいけない。
2)     DNAR指示と終末期医療は同義ではない。それぞれ別個に行う。
3)     DNAR指示にかかわる合意形成は終末期医療ガイドライン(厚労省)に準じて行うべきである。
4)     DNARの指示の妥当性を患者と医療ケアチームが繰り返して話し合い評価すべきである。(皆で学習し、自己点検して改善していく)
5)     部分DNARは行うべきではない。心肺蘇生手段の一部のみ行うが他はしない(胸骨圧迫は行うが気管内挿管は行わない)、といったことは理念に反する。
6)     米国で使用され我が国で日本語版が出ている、生命維持治療における医師の指示(POLST)について。内容にDNARを含んでいるが、日本臨床倫理学会が作成しているもので、これに準拠して行うべきではない。我が国の急性期医療では合意形成がない。
7)     DNAR指示の実践を行う施設は、臨床倫理を扱う独立した病院倫理委員会を設置するよう推奨する。なお、学会の調査では671.%の施設が設置しているとのことである。
最後のコメントで、この学会では「法的制裁をおそれるあまりに患者の尊厳を無視した延命治療が行われていないか」という問いに対しての回答を模索し、2014年に3学会(日本集中治療医学会、日本救急医学会、日本循環器学会)からの、救急・集中治療における終末期医療に関するガイドラインを出していている。その過程で、尊厳死、延命医療拒否の錦の御旗のもとに救命の努力が放棄されているのでは、との危惧があると問いかけたが、これが現実のものになっている、というのがこのアナウンスの背景にあるようだ。
なお、1)2)について、緊急時にあって、そこまで議論や判断がチームで出来るかは率直な疑問である。

以上、この心肺蘇生をするな(DNAR)は今さらであるが複雑な問題を提起している。この勧告は現在の複雑な医療現場でどう活用されるのか。これまで施設の担当医の判断で心肺蘇生を行っていなかった症例が、数年後にはどう変化していくのか。救命率とともに終末期医療となった症例がどのくらいになったか、フォローが必要であろう。尊厳死が認められていない状況で、補助人工心臓での緩和医療も法的なところで行き詰ってしまう。超高齢者の心筋梗塞や大動脈瘤破裂、が頻繁にくる循環器急性期医療での対応はどうなるか。この勧告にそって治療をすることに家族は納得しても、施設側はその後のケア、医療費、など問題が降りかかる。施設の倫理委員会で対応しても、今の我が国の医療の現場、医療構造、健康保健制度、では医療者や医療施設に負担が増える。スタッフの疲弊にもなるリスクがある。医療体制では救急医療とそのバックアップ体制が整備されないと、基幹施設での負担増が起こりはしないか、危惧されるところである。また、心停止例での救命措置の結果、歩いて退院できる、ないし自己管理が出来るようになる基本条件、即ちガイドライン等にある治療選択肢への信頼と実践なくしては進まない話であることは当然である。

諸刃の剣にならないようにするにはどうしたらいいか、というのが私の老婆心的感想である。

補足:最初は外来の緊急治療室での話で入りましたが、本題は病棟やICUにいる患者さんへの対応が主であったようです。補足説明しておきます。

日本集中治療医学会HP
http://www.jsicm.org/news-detail.html?id=7

参考になるもの
http://www.jikeimasuika.jp/icu_st/170314.pdf

2017年5月17日水曜日

成人先天性心疾患と心臓移植


 5月初めの大型連休も済んで世の中も落ち着いてきて、気候も爽やかな日が続いています。とはいえ、北朝鮮のミサイル発射、憲法改正、沖縄本土復帰45年、センター入試の改革、高齢者の自動車事故、などなど無視できないニュースが続いていて騒がしい所も相変わらずです。
さて、今日の話題は成人先天性心疾患です。生まれつきの心臓病は新生児や小児期に手術を必要とする場合が多く、難しい手術が多い中で成績も向上してきています。一方で、その子どもさんが大人になって心臓や重要臓器に色々問題が生じてきています。その成人になった患者さんを扱う専門医療分野が必要になっていているということです。この成人先天性心疾患のテーマはこれまで何度か取り上げて来ましたが、それは私の心臓外科医としての長い経験の中でかって手術をさせてもらった子どもさんが今は大人になって一部の方は継続してフォローし、治療しないといけないからです。これは私の今の臨床のなかで続いていて、また興味を持っている大事な分野の1つです。言い換えれば臓器移植と並んで今の私には大変大事なテーマです。
というのも、臓器移植と成人先天性心疾患は重要な関係があるからです。それは心臓移植です。成人先天性心疾患で心臓移植を必要とする重症の心不全が発生することが少ないとはいえ防ぎ得ない所があります。私が関わった方で補助人工心臓を付けて移植待ちの方もおられますし、適応が検討されている方もおられます。米国では年間100例ほどの方がこの疾患で心臓移植を受けています、と言っても成人全体の心臓移植の僅か3%くらいですから非常に限られています。しかし、ドナー不足が厳しいなか、海外では着実に成果が出てきていて、我が国でも避けては通れない問題です。
このテーマ、成人先天性心疾患と心臓移植、については我が国ではまだ専門集団のなかでもあまり認識されていません。このままではいけないと思って、論文にすることにしました。関係する学会誌、これは日本胸部外科学会になりますが、総説(レビュー)と言う形で、海外での成人先天性心疾患への心臓移植の現状を纏めました。文献集めや整理はすべて一人でしないといけない環境なのでなかなか大変な作業でした。幸い、先般、学会誌(英文誌、General Thoracic and Cardiovascular Surgery に採用され、今はOn-Lineでのみ閲覧できる状況です。(Heart transplantation for adults with congenital heart disease; current status and future prospect)

この海外で進んでいる状況を我が国で進めるためにはドナー不足だからとてもそんなところには、とういう雰囲気がありますが、それは患者さんに対して専門集団として責任逃れになってしまう危険があります。そいうことで、あえて現状認識という形で我が国の関係者に訴えるという所から出発しました。また自分なりには現状をまとめて何が出来るかを問う、ということも必要と思ったからです。我が国で先天性心疾患で心臓移植を受けた方は、子供さんですが海外で受けた方はおられるようです。大人では2人だけです。私が任期中に阪大病院で行った方と、最近国立循環器病研究センターで行われた1例のみでしょう。移植待機中の方は、先の私の関係する方以外には九州地区でおられるようですが、共に補助人工心臓を装着されている方です。心臓移植では待機期間が3年にもなると、補助人工心臓がないとまず難しい状況です。補助人工心臓が付けらなかったら優先度が下がって3年でも回ってこない状況です。このような中で、我が国では成人先天性心疾患の心臓移への対応は遅れていて、実際に移植を検討すること自体も難しい環境です。
この移植優先度が成人先天性心疾患患者さんでは低いという問題が米国でも指摘されています。最近そのシステムが少し変わったのですが補助人工心臓が付かない限りはやはり低いままです。わが国の優先度システムは基本的にはステータス1と2のままで、強心剤や補助人工心臓が付けられず、肝臓* や腎臓が機能不全になりQOLも著しく悪く予後不良となっていくこの疾患群への配慮はされないままです。この移植の優先度を変えるという作業は倫理的医学的にしっかりと実証しないと進まないのですが、成人先天性心疾患ではその数も少なく、検討対象にもなっていません。日本成人先天性心疾患学会や日本循環器学会などが頑張るしかないのです。
この成人先天性心疾患について学会専門集団(日本成人先天性心疾患学会)もセミナーを年2回開いてきていて、お互いに啓発活動を進めています。今年の前期のセミナーが6月に聖路加国際大学でありますが、そこで心臓移植の話をさせてもらう機会を作って頂いています。少しずつ認識が深まり、ひいては心臓移植の現状を知り、大きな課題であるドナー不足を少しでも解消できるよう世の中が動いてくれればと思います。という意味で、臓器移植法制定20周年を迎えて臓器提供について社会の認識を深め、提供の仕組みを変えていく機運がこの成人先天性心疾患での課題からも強まればと思います。
最後に、成人先天性心疾患の心臓移植は海外では当初は危険度が高かったのですが、選択基準の改善、医学的管理の向上などで、最近は先天性心疾患以外の心筋症と遜色ない結果が出てきています。とはいえ、早期は死亡率が高いのですが、遠隔期は他の心筋症に比べかえって良好であるということも分かってきました。この現象は、生存率の逆点現象, survival paradox と認識されています。それを示すグラフを紹介しておきます。実線が成人先天性心疾患、灰色がその他の一般の成人の成績です。初期は成人先天性心疾患の方が生存率が低いのですが、移植後8年ほどで交差して、15年では逆転しています。15年で半数近くの方が生存されています。




 *; 先天性心疾患、特にフォンタン手術後の肝障害〔肝硬変になっていく危険がある)は大きな課題になっています。