ポートアイランドでの生体肝移植騒動は残念ながらまだ続いています。横から意見を言う立場にないのは前回述べましたが、その後の事態は返って混乱してきているので、移植医(現役ではないですが)として少しコメントしておきます。
神戸市の立ち入り検査の結果がどう出るのかが当面の焦点です。再開後のレシピエントが術死となったことはがそもそも抱えている問題をまさに集約するものと思います。肝不全で死に直面した患者さんを最後の望みとして家族からの臓器提供で高いリスクの移植を行うことが妥当かですが、そこには医学的、倫理的問題のほかに、医療費(社会が支援する医療)の点をきちんと整理しておかないといけません。
医学的には学会が決めた生体肝移植の詳細な適応基準があります。これに準じて健康保険の適応がなされています。この適応と共に学会のガイドラインには施設基準があります。施設基準は体制に当たりますが、ガイドラインでは適応と共にかなり具体的なことが決められていて、これに沿わないと健康保険での支払いはされません。この問題は神戸市の調査で明らかになるのではと思います。
悩ましいのは、「藁をもすがる、一縷の助かる望み」、といったマスコミに出てくる言葉です。心臓外科でも心臓移植でも同じような場面は幾らでもありました。患者さんを何とか助けたい、ということでその医療が成長してきた、ともいえます。しかし、臓器移植は臓器提供者がいます。外科医と患者さんの一対一ではなく、臓器提供者なくては成り立たない医療です。脳死移植では提供される臓器は社会からの贈り物です。社会的説明責任がないと出来ないようになっています。しかし生体移植となるとこのことが家族との問題にすり替わっていきます。医学的、倫理的な歯止めが緩くなる危険があるのでは思います。
生体移植ではドナーが健康体であることを踏まえて、適応を脳死移植以上に厳格にすべきでしょう。言い換えれば、この事態の収拾には、関係学会が集まって生体肝移植の適応基準を再検討して欲しいと思います。より安全で信頼される医療を目指して、これまでの素晴らしい成果に影を残さないように、適応や施設基準を厳しくすることも視野に入れることが社会的には受け入れられるのではと愚考します。助けられる可能性がある患者さんを見捨てるのか、という意見も出てくるでしょうが、ここはしっかり議論をしたらいいと思います。脳死移植はドナーが少ないから生体移植が大事なのだ、という意見もありますが、改めて脳死移植の役割をよく考える時期だと思います。日本肝移植研究会の会長の神戸大学の具教授がコメントしていますが、脳死肝移植の推進、という言葉は的を突いていると思いますし、今後の肝不全治療への大事なメッセージと思います。
蛇足ですが、誰かやらないといけない、という点では生体肝移植の我が国での第一例をされた島根医科大の当時の永末教授がおられます。パイオニア―はどこの世界でも必要で、それがないと先駆的医療は進まないともいえます。このパイオニア―精神と勇気ある行動も社会が受け入れないと単なる冒険になるでしょう。改めて考えると、生体ドナーを必要とする医療は特別の倫理的支えがないと長続きしないと思います。一方で目の前の死に直面した患者さんをどうしたらいいのか、医療の原点の問題もあります。人工臓器(人工肝臓)の助けが望めない肝不全医療の難しさも理解できます。我が国の移植医療での課題、脳死ドナー不足、がここでも重要な背景にあることを改めて浮き彫りになっていると思います。
いろいろ意見はあると思いますが、このコメントが事態の収拾に何らかのお役立てればと思います。
サイクリングですが先週は丹後半島でした。日本海を見渡す素晴らし海岸沿いの道で一服。
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