2014年11月25日火曜日

 小児からの臓器提供:6歳未満第2例目


     昨日、6歳未満の子どもさんの脳死からの臓器提供が順天堂大学病院で行われました。6歳未満の提供の第一例からしばらく後が続かなくて心配していましたが、これで移植待機中の子どもさんやご家族の方々にはすこし前が見えてきたのではと思います。提供されたご家族にはその勇気ある決断に頭が下がります。ご自分の子どもさんをまだ小さい時に亡くすという大変つらい状況のなかで、命のリレーという選択肢を選ばれたわけです。新聞記事によるコメントも心に響くものでした。今回も脳死という状況に至ってから提供に至るまで、病院や移植ネットワークの多くの方々が、子供さんやご家族とともに厳しい時間を乗り切って、そしてご家族の意思を生かせられたことに敬意を表します。
心臓移植は阪大病院で無事済んだようですが、小児用の補助人工心臓からの移植は国内では初めてではないかと思います。小児では補助人工心臓の装着自体が大きな侵襲であり、血栓塞栓症や感染などが起こりやすいのですが、比較的短い待期期間で移植が出来たことも良かったのではと思われます。
今回、小児からの臓器提供が決まった後のTVニュースを見ていて思ったことを紹介しておきます。臓器提供について(ドナー側)は(公社)日本臓器移植ネットワークが国の認めた唯一の臓器斡旋機関であり、社会的関心が高いときには筆頭理事(医療本部長)が記者会見をするのが決まりです。今回のニュースを見ていると、ネットワークの芦刈氏の横で厚労省のお役人が座っておられました。厚労省は脳死からの臓器移植については法律が出来た当時からその健全な発展に責任を持っていて、脳死判定や臓器配分に一点の曇りもないように、と見張っているわけです。その窓口は臓器移植対策室というところです。一方、ネットワークは公益社団法人で独立しています。しかし、ネットワークは厚労省の予算で動いていることもあって、法律のもとでの臓器提供でもあり厚労省が後ろにいるという構図です。こういうことから臓器提供の記者会見で厚労省のお役人が横に座っていてもおかしくないと思われますが、今回特に問題が生じたわけでもないので、厚労省の陪席に私は少し違和感を持ったわけです。少し前の記事にも書きましたが、臓器移植の実施体制もお役所が監督していた時代から、移植の現場(実施施設)に任すように変わってきているのですが、臓器提供となるとまだそうではないのか、ということです。国がバックアップしている、ということを伝えたいのかもしれませんが、臓器移植ネットワークはもっと独立性を示していい時期と思っていることから、こんな斜め目線の話になってしまいました(どこかで怒られそうですが)。
とはいえ、今回の脳死の子供さんからの臓器提供を社会が温かく見守り、ご家族に敬意を表し、そして子供さんの心臓移植を海外に頼らなくていい日が早く来ること願って締めとします。
 
 
 
 

2014年11月17日月曜日

シミュレーターを用いた看護研修


 随分寒くなりましたが、皆様お変わり御座いませんか。

さて、医療専門職者の生涯教育のフォローが遅れています。気になっていたのですが、最近注目されているシミュレーター看護教育の紹介で続編の一つといたします。
その前に私が昨年より理事長をしております公益財団法人神戸国際医療交流財団について紹介しないといけません。この財団は肝移植の田中紘一先生が我が国の進んだ医療や医療機器の国際展開を図る目的で設立され、そのかなで医療に関わる人材育成が大事な仕事となっています。補助金を頂いて活動するもので、東南アジアなどから医療技術習得で来られる方の支援を進めてきました。理事長職を私が引き継いでからは、ポートアイランドで新築された伊藤忠メデイカルプラザを新たな活動拠点にし、この10月から事業展開を図っています。そのなかの医療人育成事業として、患者シミュレーターを導入しました。米国製の高機能患者シミュレーターで、バイタルサインがチェックでき、いろいろなシナリオで操作ができます。臨床現場を想定して実践能力を高めるために、患者さんで訓練するのではなく、こういったシミュレーターを用いた教育(シミュレーション研修)が盛んになってきています。医学部、看護学部、薬学部などでは学生教育に必須となっていますが、一方では資格を取った後の継続教育、生涯教育、のツールとしても重要視され、欧米では医療専門職教育の中で確固たる位置を築きつつあります。

さて、先日は看護のシミュレーション研修の第一回目を行いました。チーム医療のための看護実践スキルアップ研修というもので、中堅病棟看護師さんが病棟で患者さんの様態がおかしくなったときにどう対応するか、というシナリオでした。異常サインに気づき、観察とアセスメント、そしてナースコール、初期対応、そしてドクターコール、的確な報告という一連の流れを想定したものです。私はシミュレーターのシナリオの移行を備え付けのパソコンから捜査する役です。5-6名の少人数で行い、消化管出血を想定したシナリオです。患者さんから息苦しいというナースコールがあって、個室の病室(ICUではない)に訪問し、異変についてどう把握し、次に進めるかを一人一人がまず実演します。ほかの参加者は観察者ともなり、それぞれの看護師さん役の対応について議論(振り返り、デブリーフィング)していきます。初期設定の場面で一回りし、次に出血性ショックが進行しドクターコールで終了する二回目を行い、最終的にまとめの総合討論、めとめ、を行います。結構議論する時間がとってあり、参加者は自由に意見を言うことが大事で、ファシリテーター(企画から実施まで、急性・重症患者看護の専門看護師と認定看護師の方にお願いしました)がまとめていきます。個人の対応の悪いところを指摘するのではなく、どう気づいて行ったかのプロセスを大事にし、最終的には出血性ショックに限らず、病室で急変した患者さんへの対応に自信を持って帰ってもらうのが趣旨です。何でもナースコールを押して先輩看護師に応援を求めるだけでなく、状態の把握に基づいて行うことで、遅れないで適切な時期に応援を呼べるようになる、というのが目標です。自信を付けてもらうのが目的です。

夜間や休日では詰所への応援コールやドクターコールは容易ではない環境が新人や中堅看護師にあります。何でこんなことで呼んだのかとか、自分でしっかり対応してから呼びなさい、と言われることも少なくありません。一方、何でもっと早く呼ばなかったのか、という先輩や担当医師の叱責も出てくるので、現場の看護師さん(新人看護師や研修医もそうです)には大変悩ましいことです。基本は遅きに失する状況を絶対回避しないといけないのですが、今回の看護シミュレーション研修は最初の観察で急変であるということをいかに早く把握するかのレーニングでもあります。急変の把握の仕方も最初に講義し、途中の振り返り時にもう一度確認するということをしていきます。何でもいいから早く応援を呼ぶのも困るのですが、かといって大事になる前に呼んでほしいわけです。大事なのは呼ばれた方も一緒になって状況の把握をして、適切な対応に繋げて欲しいわけです。そして応援を呼びながら状況の把握と初期対応が求められます。

この研修はチーム医療のための、と銘打っているところが大事です。師長さんや医師の側も、不要な未熟な報告をただ非難するのではなく、ともにスキルアップを図って的確な対応(看護師の応援からドクターコールまで)が出来る環境を作っていく上でこのような研修が役立つものと思います。臨床現場で多職種が連携してチームのレベルアップを図ることが大事であり、そういう意味では先輩看護師や医師の対応ひとつでネガテイブにもなりポジテイブにもなるわけです。上級医師と研修医の関係も同じであると思います。チーム医療というコンセプがなかった時代の昔の自分を振り返りながら、感慨深くこの研修を眺めていました。

臨床での生涯教育を進める上で、このようなシミュレーション研修はこれから大事になってくるものと思います。看護研修はこれからの2回目、3回目と続きますが、我々もスキルアップして進めていきたいと考えています。


当財団は、既に心臓血管外科の若手相手に冠動脈バイパス手術のトレーニング(BEATというシミュレーション機器)を別に始めています。これらの企画などは財団のHPをご覧ください。http://www.kobeima.org/  今週は摂食嚥下サポート相談室と冠動脈バイパスの2回目(2回で1コース)が行われます。

2014年11月9日日曜日

ベルリンの壁崩壊から25年



 今年は世界の歴史から見て幾つかの節目の年です。第一次世界大戦勃発から100年、第二次世界大戦が始まって75年(太平洋戦争勃発はその2年後で私が生まれた年)、東京オリンピックから50年、そして天安門事件やベルリンの壁崩壊から25年、といったところです。特に今日、11月9日、はベルリンの壁が崩された記念すべき日でもあります。こういう機会に世界史を勉強し直すのもいいかと思います。といっても本を見なくてネットで事が済むのも寂しいですが。

      世界に冠たる自転車競技のツールドフランスも昨年が100回記念でしたが、今年はというと第一次世界大戦開戦100周年記念大会となっていました。ヘリコプターからのフランス各地の映像を見るだけでも楽しいのですが、今年は戦争の記念となる土地やモニュメントに加えて、26万人が戦死した激戦地跡も紹介されていました。例えば毒ガス(マスタードガス)が戦争で初めて使われた戦線である北フランスのイープルもコースに入っていたり、戦死者の広大な墓地のそばを走ったり、フランスは100年前の戦争の苦い経験を忘れない、という大会主催者の気持ちが入った大会でした。因みにマスタードガスは別名をイペリットと言いますが、これは地名から出てきたということです。

      表題のベルリンの壁ですが、25年前の11月9日に東ドイツはベルリンの壁の開放を宣言し、東西を遮っていた壁のゲートが開けられたわけです。これに至る数か月(数年?)の東西ドイツやソ連、そして東欧諸国の目まぐるしい動きに今となっては歴史の面白さを感じます。さて、この解放によって東ドイツから自由に西側にはいれるようになったのですが、実際に構造物としての壁が崩され始めたのは数日後のようです。このテーマでは崩壊後20年の時(2009年)にこのブログの前身の学長ブログで紹介しています。その内容は、まず1989年のベルリン訪問です。丁度壁崩壊の数週間後でして、まさに壁が壊されていく場面に遭遇したわけですが、その20年後にベルリンを再訪しています。  (http://www.huhs.ac.jp/president/index.php?page=23)。

      さてこの歴史を紐解くと、このベルリンの壁崩壊は突発的なことではなく、その数年前からの東欧の国で広まっていった社会主義独裁への反動がピークに達した結果が東西冷戦の象徴であったベルリンの壁の崩壊に繋がったわけです。その年の12月に行われた米国(ブッシュ)とソ連(ゴルバチョフ)の両首脳がマルタ島で会談し、冷戦終結宣言が出されたわけです。近大世界史上の大きな出来事をこんな風に端折って書くのは気が引けますが、それは許してもらうとして、同じ年に(壁崩壊の前ですが)北京で天安門事件が起っています。しかし、その後の結果は全く逆であったことは、欧州ではその後の東西ドイツ統合やEU誕生、等が続いていったことと比べてしまいます。

   ベルリンの壁崩壊は長く続いた東西冷戦の終焉をもたらし、東西の対決は戦争ではなく対話への時代に入っていたのですが、残念ながら今年はクリミヤ半島で始まったウクライナへのロシアの介入が起こり、再び東西冷戦が始まったかのようでもあります。壁崩壊25年と言っても、中東も含め各地でまだまだ諍いが続いているのを見て、「歴史は繰り返す」という言葉が重く降りかかってきます。振り返って我が国を見ると、近隣国との関係はいまだに不安定でありますが、我が国はこれからも良い歴史を作って行って欲しいと感じます。