2017年8月7日月曜日

臓器移植法制定から20年; 和田移植の呪縛はまだ残っている


暑中お見舞い申し上げます。台風5号で宝塚も雨風が強くなって来ました。
さて、暑くて頭も回らず、7月1日の内容の再掲ですいません。

今年は臓器移植法が制定されて20年の節目を迎える。再開から18年でもある。この節目の年になって我が国の臓器移植の現状を見ながらつくづく思うのは、表題の「和田移植の呪縛」である。こういう表現をするのはあえて今の臓器移植の低迷、私はそう思っている、の原因、そして課題を考え新たなステップを切り開く上では避けて通れない確認事項と考えるからである。
心臓移植の長い歴史ヺ見ると、南ア連邦ケープタウンでバーナード博士が世界初の人から人への心臓移植が行われて50年目である。この記念すべき年に、和田移植のことを半世紀後の今になって話題に上げなくてはいけないことがまずもって情けない。
脳死での臓器提供は法改正後に年間50件を超えるようになった。しかしその数は改正前の心停止での腎臓移植(脳死で心停止まで待つ)の数を超えるどころか減少している。心臓移植も年間50例にならんとしているが、当初からの目標とする心臓移植年間200例には程遠い状況である。
本題に戻ると、まず今の臓器移植の状況には決して満足できない、未だ心臓移植の定着には程御遠いという共通認識がいる。問題は二つある。一つはWHOの提唱する原則、臓器移植は自国内でと死体から、が守られていないことである。心臓以外で生体臓器移植が未だ大きな役割を果たしている現状と、小児心臓移植が海外に頼っていることである。もう一つはシステムの問題である。これには法律が関わる。我が国の臓器移植、こと脳死からとなると法律のもとで全てが行われている。「臓器の移植に関する法律」およびその細則があり、さらに運用のための行政が決めたガイドラインがある。全てこれらに縛られ、硬直化しているのが今の日本の臓器移植と思われる。海外と違ってすべて法律で縛られるようになったのは正に和田移植のせいと言える。

18年前、心臓移植再開でその呪縛が解けた、ということであった。しかし、現実には、その過ちを繰り返させてはいけないという呪縛が隠然と残っている。その代表的な言葉が、「一点の曇りもなく」、である。これは法律の運用においていまだに行政が口にする言葉である。まさに、和田移植の呪縛がこの言葉に代わって生きているし、生かされている。お役人は昔のことはどうこう考えることなく、現法律の適切な運用を監督することは当然のことであるが、移植医療の新たな展開になるのではという場面でこの言葉が使われることが問題なのである。勿論、頻回ではない。しかし、大事な局面で、恰も水戸黄門の印籠のごとく登場する。また医療者側がそれをあたり前と思ってしまっている。
何故これに拘るか、というと、一つは行政が未だに指導監督官庁として現場を監視していることと、医療側(特に移植医)がこれを甘んじて受けていることである。移植現場、加えて患者さん方(ドナー家族)、の地道な努力でもって移植医療の新たな展開が図れる機会があっても、お役人のこの一言でせっかくの機会が無駄になってしまう。これを移植関係者が反論しないで大人しく聞いてしまっている。これは何も法律違反、条例違反、をしろ、勝手にさせろ、とは決して言ってはいない。しかし、此の膠着した移植医療の現場を何とか変えていこうとするならば、此の呪縛的な一言をあえてお役人に言わせない、というのが移植に関わる専門医療者の矜持ではないか

私があえてこういうことを言うのは、もういい加減に医療現場、そしてプロフェッショナル集団を信用してくれ、今や誰も移植医療を曇らせようとは考えていないし、必死で公平、公正、公明、の三原則を守って来ている。しかし、亡霊のごとく折に触れ出て来る。現場を萎縮させる以外何ものでもない。移植医療は性善説が基本であって、そうでないと円滑な進歩は難しくなる。制定後20年を迎えて、日本の移植医療を本来のあるべき姿、プロフェッショナル集団に任せる、という方向付けを打ち出す時期であることを共通認識とする必要がある。臓器斡旋はお役所が管理するが、その他は医療現場のプロフェッションに任せる所まで成長していることを現場はもっと誇りに思い、指導力を発揮すべきである。

臓器提供の低迷のもう一つの背景は情報公開の問題と思う。移植の素晴らしさが社会からは充分見えない、移植を受けた方の喜んだ顔が見えない、陰の医療、と思われても仕方がない。何故か、それは法律の運用に関する指針(ガイドライン)にある、個人情報の保護の部分である。そこには、移植医療関係者が個人情報そのものの保護に努めることは当然のことであるが、移植医療の性格にかんがみ、臓器提供者に関する情報と移植患者に関する情報が相互に伝わることのないよう、細心の注意を払うこと、とある。この細心の注意、はお役人からすれば、これはしっかり守れ、と言っているので、どうこう言うことではない、君はこれが分からないのか、という所である。しかし、ある事例で行政がメデイアに注意勧告めいたことを発表する根拠に使われている。こうなっては注意義務ではなく規則になる。この個人情報保護(相互に伝わる)は、原則であって家族や患者、遺族に、そうすべきと強制するものではない。悪意を持ったことは無論いけないし、無理に伝えることも論外である。また広い意味での個人情報を守るとうことは当然である。しかし、移植で言うこの個人情報扱いにおけるこの原則論が未だ生き続け、浸透し、ある意味独り歩きしていないか。移植を受けた患者も提供した遺族も社会に顔を出せないようになっているではないか。メッセージだけは出るが、それで終わりである。

一方ではドナーファミリーの会も出来てきている。先般、神戸では奥さんが脳死で臓器提供されたご主人が実名で講演を行い、地元新聞ではこれを異例、として紹介している。米国で心臓移植を受けた子供さんの親が、米国のドナー家族とお互いに実名で手紙のやり取りをしている。渡航移植で帰った子供さんは元気な顔を見せ、親と共に感謝の言葉を述べている。自国ではどうか。心臓移植を受けた子供さんは隠れたまま、親もそうである。これでは社会はその医療の素晴らしさ、ドナーと家族への敬意、などが表面的に終わってしまう。勿論、市民公開講座やその他の移植関連の企画で国内レシピエントの顔も出てきていることは、関係者の地道な努力の賜物であることに異論はない。

しかしこのままが良いとは決して思われない。そこは、ガイドラインの文言をどう解釈するのかにかかっている。ドナー家族とともにレシピエント家族(子供の場合)へのこの遵守事項の理念の説明と共に、移植からある程度期間が経った場合は許容される、といったことであろう。ガイドラインはあくまでガイドラインであって規則ではない。ネットワークのコーデイネーターの方も、家族や患者、遺族の考えをまず尊重することが大事で、強制はできない、と言っている。移植の当事者であるドナー家族とレシピエント側のこの情報公開についての考えも機は熟していて何らかの方向で纏める時期ではないか。

学校でも社会でも、心臓移植を受けた子供さんを暖かく受け入れて見守る、元気になったことを見て共に喜ぶ、それが自然と出て来る社会を作るうえで、何が必要か。その視点でこのガイドラインの個人情報項目について再考すべき時期であると思う。再考といっても医療現場がコンセンサスを持って対応することであって、ガイドライン自体をどうこうすることではない。渡航移植と国内移植で情報公開においてこうも違うこと自体に疑問を持つことから始めないといけない。脳死のダブルスタンダードと似て我が国固有の問題である。また、メディアとの連携も当然必要で、一方的な報道は決して許されないことは当然である。

心臓移植担当者も移植医療の素晴らしさを患者さんと共に社会に見せる、というプロフェッションとしての責任がある。社会が尊敬と喜びの共有が出来ないのは本来の移植の姿ではない。呪縛云々はさておいても、一点の曇りもなく、そして個人情報への細心の注意、の二つが少なくとも今の脳死からの臓器移植の停滞の背景に存在している、という私の意見は残念ながら現場で受けいれられているかどうかは分からない。しかし、この認識を移植関係者が共有し、その上で新たな展開を図る努力が求められていると思う。

                       大阪大学心臓血管外科同窓会誌より転載


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